私は早く合奏がしたかった。
そのためには、まず楽器を鳴らすことができなければ。
5つの黒い塊を繋げたあとに、先端にリードを付けた歌口の部分を咥え、息を吹き込んでみる。
「ぶぉ~」という、鈍い音が出た。
幼い頃からベニーの音に馴染んでいた私には、出したい音のイメージがちゃんとあったと思う。
管楽器練習の基本は、なんといってもロングトーンだ。
ブーと吹き込んだ音を、息の量を安定させながら、長く伸ばす。
一つもキーを抑えずに、息だけ入れて出る音を、「解放音」と言う。
右手の親指と口元だけで楽器を支え、あとの指はぜんぶ放した状態で出るクラリネットの解放音は、ソ(G)の音だ。この音を、出来るだけ長く、安定させたまま伸ばす練習を、何度も何度も繰り返す。
はやく曲を吹きたいのに「ソ」だけを吹く日がつづき、あとやることと言えば楽器の手入れくらいだった。フシミ先輩は手入れにも厳しい人で、一日の練習が終わったあとは、それに長い時間をかけた。
練習後の楽器の内側は、冷えた息で出来た水滴に覆われている。
管内をスワブとよばれる、専用のハンカチで拭く。楽器屋さんに売っているスワブには、先端に錘が付いており、それを管に通して、管の内側の水分をていねいに拭き取る。
「(手入れを)ちゃんとやらないと、楽器が割れるよ!」
と、フシミ先輩は口を酸っぱくして言った。
そう、クラリネットは吹奏楽で使われる楽器のなかでも格別に繊細な楽器だった。
管楽器には金管と木管があるが、クラリネットと同じ木管仲間のフルートは、楽器の進化の過程で金属製に変わっている。サックス(サキソフォン)も木管楽器だが、現在は金属で出来ている。クラリネットだけが、割れやすい木製だ。のちに私はサックスやフルートも手にすることになるのだが、クラリネットに比べてあまりにも手がかからなくておどろいたものだ。クラリネットはだんぜん護られるべき楽器であった。ちなみにオーボエやファゴットはいまも木から作られているが、当時の中高の吹奏楽団ではほとんど扱われていない。
「最初の冬は、とくに用心しなきゃね」
前歯に特徴のあるフシミ先輩の表情が、微妙にゆがむ。不安や不満が心によぎるとき、先輩に宿るウサギが耳を折り畳んでいるようで、私はそこを見逃さない。
新品のクラリネットは割れやすいのだそうだ。私が<旗揚げブラスバンド部>に出入りし始めたのはそろそろ寒くなる時期だったので、要注意だった。
ロングトーンの一日を終えると、スワブをていねいに通す。それが毎日。そして一週間に一度は楽器の内側に油を塗った。ボアオイルと呼ばれる、クラリネット専用のオイルをスワブに浸み込ませ、細長い楽器の中に通していく。
「油が多すぎてもいけない」と、フシミ先輩は言った。
花に水をやりすぎると花が枯れるのとおなじなのだろう。いまならわかるが、当時はフシミ先輩に言われるがまま、ああでもないこうでもないというさまざまなルールを吞み込んでいった。
練習後はアゴを手の甲でトントン叩きましょう、という指導もあった。
クラリネットを吹くと二重アゴになるので、マッサージが必要だという。
「ミッキーさんのようになっても知らないよ」
当時、ゴダイゴというバンドが流行っていて、そのリーダーでキーボーディストのミッキー吉野さんがよく太っておられ、二重アゴだった。ミッキー氏はたしかクラリネットも演奏されたはずである。私がアゴ・トントンをサボると、フシミ先輩はその話を持ち出して、私を諭すのだった。
楽器の表面はフエルト系の布で、木の部分とキーの部分を別々に磨き、ピカピカにして、楽器ケースに戻す。
分解され、丁寧に手入れをされたクラリネットは、「やれやれ」とホッとしたように、ケースに収まった。
ケースの中に静かにうずくまるクラリネットを見るのも、私は好きだった。
お昼に授業が終わる土曜の午後、メンバー全員で楽器の手入れをした。
ブラスバンドの部室となっている理科準備室のとなり、準備室より広い理科実験室に集まって、各自、大切な楽器を大きな机に並べ、作業に励んだ。
もう一人のクラリネット奏者であるバンナイ先輩も来ていた。ボアオイルを付けたスワブをクラリネットの下部先端、ベルの部分から通しながら、仲良しのコジマ君と楽しそうにしゃべっている。コジマ君は私と同級生で、コントラバスを担当していた。彼は唯一の弦楽器奏者だった。吹奏楽に弦楽器が入るのは、このコントラバスというものだけで、吹奏楽ではベースの役割を担い、金管楽器のチューバと同じ譜面を、演奏する。
コジマ君は弦を弾くための弓に油(松脂)を塗り、トランペットのヤギオカ先輩は楽器の内側をベルから覗き込むようにしてチェックしながら、ピストンにオイルを塗っている。
理科実験室には水道もあるので、金管楽器の人は水を使って、バルブとよばれる管を洗う。
チューバのアサノ君やユーフォニウムのヒノさんも楽器をバラバラにして、洗剤をつけて管を洗っていた。金管楽器の人たちは、楽器をお風呂に入れているみたいだった。
楽器の大小にかかわらず、みんなそれぞれ自分の楽器を細かく分解し、ブクブクと泡立った管を水にさらして、水気を切ったあとは柔らかい布で、隅々までていねいに拭いた。手を抜く者は、いなかった。
当然ながら、いまより身体も小さかった。
いくつもの小さな手が、働いていた。
フシミ先輩と私も、楽器の手入れにいっそう力を入れた。
キーやレバーなど、分解した本体のところどこに付いている金属部分に、シルバーポリッシュという銀専用の磨き粉を付ける。金属磨き専用の布でその一つ一つを、キュッキュッと擦る。
力を込めて、磨きをかける。
すると布は黒く汚れていき、キーやレバーの銀色は、瞬く間に輝きを増していった。
クラリネットの黒い部分に、銀色が映える。
手入れの終わったメンバーの楽器がずらりと、理科実験室の大きな机に並んだ。
どの楽器も湯上りの人のようにホカホカになり、おだやかなようすで、そこにいた。
ふだんより早い放課後の日差しが窓から差し込んで、始まったばかりのバンドの楽器を、いっそう眩しく照らしていた。
<つづく>
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