第82回ダッタン人の踊り(4)はじめての合奏 ~プリーズ・ミスター・ポストマン

固定相場制から変動相場制へ移行して数年、景気は乱れながらも上昇へ向かい、対ドル円相場が戦後最高値を記録(1978・昭和53年1月、1$=237,9円)、カラオケ・ファミレス・ディスコがブームになりはじめ、バブルの前兆が感じられる時代に突入していた。

新東京国際空港(現・成田国際空港)が、このころ開港している(1978・昭和53年5月20日)。世界への窓が、大々的に開かれた。しかもわがファミリーの住まう千葉県で。

私の両親は大阪出身だが、転勤を機に東京へ移住、私は品川の病院で生まれた。その後、神奈川県の川崎や辻堂をへて、千葉県の我孫子へ引っ越してきた。大がかりな住宅開発が進みつつあったが、まだまだ田んぼや森の残る、えらい田舎だった。クルマがないと生活できないと言って、母は引っ越し直前、大急ぎで免許を取った。

父が総合商社勤めだったので、しょっちゅう海外出張する父の送り迎えで母のクルマに同乗し、私も空港へ度々行った。開港のころには母も運転に慣れていたが、成田への道はじゅうぶんに舗装されておらず、電燈もなくて、夜は真っ暗闇のなかを進まなければならなかった。

これから空を飛ぶ父――を見送るワクワク感や、ソ連の変なおみやげとともに異国の空気をまとった父の帰国を待つ喜び・・・成田空港という場所は私の心にそうした高揚感をもたらしてくれた一方で、その周辺にはただならぬ空気が立ち込めていることも、私は察知していた。検問が多く、成田へ近づくにつれ物々しい雰囲気に満ちていたことをよくおぼえている。当時、空港建設に反対する地元農民と活動家たちによる、いわゆる「成田闘争」の名残りが濃厚にあったのだった。

経済成長にともない羽田に替わる新空港建設が急がれていた1966(昭和41)年、突然の閣議決定によって「成田市三里塚」を空港建設予定地とした国は、地元の反対を押し切って二度の「強制代執行」で滑走路用地を確保する。反対派は三里塚・芝山連合空港反対同盟を結成、工事用道路の現場でスクラムを組んだり、ブルドーザーの前に坐り込んだり、激しく反対運動を展開した。空港付近をバリケードで固めた彼らの抵抗は、開港後も続いた。

それでも世の中は総じて、あかるく上向いていたようにおもう。上昇気流に乗っかるように、私の吹奏人生もはじまった。

<旗揚げブラスバンド部>は毎放課後、理科準備室の小部屋で音を出した。

楽器経験者とそうでない人がいたものの、カンタンな曲を合奏でボチボチやるようになる。

「プリーズ・ミスター・ポストマン」は、1960~70年代のアメリカのヒット曲。マーヴェレッツという女性コーラスグループのデビュー曲で、ビートルズやカーペンターズがカバーした。なかなか来ない恋人からの手紙を待ちわびる女性が、郵便屋さんお願い、早く私に届けてね!といった歌詞である。当時そんなことは知らず、数人の金管奏者がいれば恰好のつくようにアレンジされていたこの歌で、ブラスバンド部はスタートを切った。

 

自身もトランペットを吹いていたという、Z(ゼット)が指揮をした。

理科の先生であるZはいつも白衣を着ており、その大きなポケットに指揮棒を差していた。合奏になるとそれを取り出し、踊るように振りまわす。

トランペット、ユーフォニウム、アルトホルン(小型のユーフォニウム)、チューバ・・・金管のメンバーはそれぞれのパートを担い、アンサンブルした。

私も早く仲間に入りたい。

 

そのころにはクラリネットの解放音G(ソ)のみならず、ほかの単音のロングトーンに加えて、指を動かして音階練習へと私は進んでいた。

管を塞いでいた指を順繰りに放していくと、音が上がっていく。指を戻していくと、音は下がる。ドレミファソラシド、いったりきたりを繰り返す。

クラリネットの運指は、小中学校の音楽の時間に習うリコーダー(縦笛)とほぼ同じで、比較的カンタンだが、最高のC(ド)を超えると、運指がぐんとむずかしい。教則本の後ろに掲載されている運指表をたしかめながら、最高音のG(ラ)までの指をおぼえる。

高音にいくにつれ、音程が不安定になるので、高音を吹くときには息遣いを変える必要があった。音を安定させるには、息のスピードを上げるのだ。

高音には高速の息が必要――私は呼吸をフル回転させて、高音に臨んだ。高い方がきつい。いろんなことが、そうなのかもしれなかった。

 

一連の基礎練習には、ロングトーン、音階(スケール)練習のほかに、タンギング(舌突き)と呼ばれるものがあった。歌口から息を吹き込みながら、舌で音を切る。口内で発音をするのである。

トゥー、トゥー、トゥー、と、同じ調子を同じ速度で繰り返す。

はじめはゆっくり、慣れてくると速度を上げて、トゥトゥトゥトゥトゥ・・・と細かく音を切っていく。

かなり速い速度になると、トゥの発音では間に合わなくなり、トゥク、トゥク、トゥク・・・と発音する。それをダブル・タンギングというのだと、バンナイ先輩が教えてくれた。初期の教育係はフシミ先輩であったが、やがてバンナイ先輩もいろいろ教えてくれるようになる。この二人はクラリネットに於いて雛鳥だった私の、お父さんとお母さんのようだった。親鳥に護られ、学び、私はすくすくと育った。

 

このようにして、音を伸ばす(ロングトーン)、音を変える(スケール)、音を切る(タンギング)、といった一つ一つたいへん地味な練習を、毎日コツコツ繰り返す。そうした訓練を徹底的にやったのち、それらの技を組み合わせることによって、はじめてちゃんと曲が吹ける。

私は着々と腕を上げていったはずだけれども、合奏の中に私はいない。

「プリーズ・ミスター・ポストマン」はクラリネットを必要としておらず、同じB♭管ということでトランペットの譜面をもらった気もするが、思い出せるのはみんなの音を聴いていた自分だ。そして見ていた。ワックスのかけられた床に落ちる唾や、バラバラに並んだ椅子や譜面台、金管の人たちの、マウスピースに押し当てられて赤く腫れた唇を。

<つづく>

参考文献 『「ナリタ」の物語』大和田武士 鹿野幹男 著 崙書房出版 刊

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