第106回真島俊夫さんの「レ・ジャルダン」③

カンオケ宣言以降、内臓が飛び出そうな悲しみと不安を抱えて過ごした。

親との別れを覚悟することが、これほどたいへんなことだったなんて。

だれもが通る道であり、多くの友人知人がすでに通った道だけれど、あのとき私はかれらになにをしてあげられただろう。私はなんもわかっていなかった。

 

父のほうは、腹をくくったようだった。

それまではなんどかあった電話も途絶え、こちらからの電話にも出なくなった。

「死ぬぞー」

本人はそう決めたようだ。しかし死んではいない。

まだ生きている父のために何ができる?

 

こういう事態になって初めて、私は子をもたなかったことを残念に思った。

私はいちども結婚していないし、子どものいない人生というものにギモンや不満を持ったことがなかったが、ここへきて、父に孫の顔を見せられなかったことについて、ごめんなさいという気持ちが込み上げてきた。還暦間際になって、こんなことを思うなんて。繁殖可能な年齢はとっくのとうに過ぎているため、いまから父のためにそれをするのはむりなので、ほかのことを考える。

 

父がいつも座っている大きな椅子のまわりを、悲しみをこらえて整理した。

現役時代の賞与明細、家のローンの記録、株式の売買・・どれも初めて目にする書類ばかりだったが、これらによって父がいかに家族を思って退職後の日々を過ごしていたかを知った。会社関係の一部をのぞいてほとんどの社交を絶ち、自分はちっとも贅沢せずに、母と私がなるべく豊かに毎日を過ごせるようにやりくりしてくれていたこと、私が出版社を辞めて作家修業のようなことをやっていた時期を、父が丸抱えで支えてくれていたこと、あたまではわかっていたつもりでも、身に沁みた。

 

病院の感染症対策で面会ができなかったため、父にまいにち手紙を書いて、それを病院に届ける、という日がつづいた。

十日ほどたったある日の午前中、ふと心がかるくなった。父との別れを覚悟して以降、全身をがんじがらめにしていた大きな悲しみのかたちが、少し変わって溶け出してきた気がした。それまで片づけ以外なにもする気が起きなかったので片づけばかりしていたが、片づけ中に、父が在職中に書いた論文が出てきた。それは、「幸せになるために」と題された、西欧哲学についての論考だった。チャイコフスキーやベートーヴェンといったクラシック音楽を好んだ父の、若き日の繊細な一面を見るようで、わたしはその一文字一文字を追い、パソコンでリライトを始めた。

 

父は40年、総合商社に勤めていた。ニチメン(2001年に日商岩井と合併、「双日」となった)という会社で、若い頃は北洋材とよばれるソ連(現ロシア)の材木を主に商い、キャリアを積むとともに北洋材のほかに南洋材や米材も扱い、やがて穀物など他の部署もみるようになって、世界中を飛び回っていた。そして米国ニチメン副社長(ニューヨーク・マンハッタン駐在)、のちに常務取締役までつとめた。

仕事の話もいろいろ聞きかったが、父は自分の会社時代について、退職以降はもうあまり触れられたくなかったらしい。退職と同時に闘病がはじまったこともあったかもしれず、そこは娘の私もおんなじだったので少しわかるきがした。

商社マン時代の父の活躍については家族として自慢だったし、それ以前の父――学生時代や子ども時代の話も面白い。東大阪市日下町に生まれ育つ。小学生のころは小鳥を育てることが大好きで、学校帰りは小鳥屋の塩谷さんというおじさんのところへ毎日通っていたという。おばあちゃん(父の母)も小鳥を孵して育てることがとても上手だったらしい。小鳥を卒業したあとは、猛勉強のあげく大阪外国語大学(現・大阪大学)のロシア語科に入って、日綿に就職して以降はロシア語と英語をつかってたくさん仕事をしてきた。生き物と自然と家族をこよなく愛していた父、東京に転勤になって何十年経っても関西弁で話していた。話が上手く、家に置いておくのがもったいないと思えるような面白い人で、おかげでわが家はいつも明るかった。もっともっともっと、一緒にいたかった――けれど。

 

わたしが論文を書き写し終えたころ、父は息を引き取った。

春の少し手前の、寒い朝だった。

<つづく>

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