第13回殺しながら生きる②

アポはちゃんととれていなかった。半ば私が押しかける格好となった。
田口洋美さんが教鞭を執られているという東北芸術工科大学、この大学の名前を、私はなかなか覚えられなかった。何度もメモを開き、行き先を確認する。田口さんの著作にひと通り目を通して、山形へ向かった。
山形へ行くだけでも遠いのに、山形駅からさらにバスで1時間乗った、蔵王の山の奥の上の方に大学はあった。
芸工大前のバス停を降りると、パラついていた雪が本降りになった。
芸工大は三角屋根の、魔法の城のようだった。
あとになって思い返すと、あれは夢だったのではないかというような、霞んだ空に浮かび上がる、白というより透明に近い建物だった。

大学に到着したが、すぐ田口研究室へ連絡する気になれなかった。
電話での威圧的な彼の態度を思い出すと、なんだか憂鬱になったので、なんとなく図書館に入った。淡いグレーに包まれた、これまた現実離れした冷たい空間だった。春休みのせいか学生がおらず、職員もほとんどおらず、私はひとりぼっちで2時間ほどを氷のような図書館で過ごした。
そこにいるだけで自分が浄化されていくような、不思議な時間だった。

田口さんは20代の頃、映画の助監督をしていた。その頃、民族文化映像研究所の所長であった姫田忠義氏との出会いから、ある記録映像制作のプロジェクトチームに入ることになる。それは新潟県最北の市・村上市と、山形県との境を接する朝日連峰の山村・三面(ルビ・みおもて)村のダム建設にかかわるものだった。

三面村は、いまはもうない。村はダムの底に沈んだ。
田口さんは1982年の冬から、1985年9月14日に三面集落が閉村するまでの4年間のうち500日あまりを現地で過ごし、フィルムとフィールドノートに記録した。文書は『越後三面山人記ーマタギの自然観に習う』(農山漁村文化協会 1992年)にまとめられている。その副題のとおり、村人の四季の暮らしが、狩猟をなりわいとする人びとの生きた言葉の数々とともに伝えられる貴重な書だ。
「人間が山で生きていくには、山を半分殺して丁度いい」
田口さんが山人の小池善栄さんから引き出したこの言葉の意味を、私はロシアの<ウデヘ>を通して知ることになるのである。

<これまでダム建設のために犠牲となった山間の村々は何百という数におよぶ。私たち平野部に住むものの暮らしは、数多くの山村の犠牲の上にあると言っていい。しかし、そうした犠牲を強いるほどのものが、平野部の人びとの暮らしにあるのだろうか>『越後三面山人記』あとがきより

気を取り直して、私はようやっと連絡を研究室に入れた。
案内されたのは無機的な個室で、スチールの高い書棚がひしめく間から、ひょっこり田口さんが現れた。
最初からなのか、それともマタギのことをずっとやっているから似てしまったのか、クマのようだった。
大きいからだを、世話好きのおばさんのように折り曲げて、あたたかいコーヒーを淹れてくれた。
顔は、というか目が笑っていた。そのコーヒーが凍えていた私の胃袋に、沁みわたった。

<つづく>

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