第56回アイヌ「送り」の儀式と美流渡

しばらくクルマを走らせると、青く大きな看板が出た。
「ぎゃあ、あれがミルト?」
<美流渡>
と書かれた文字が、目にとびこんできた。
美流渡はこっちですよ、と道案内されている標識を見て、私たちは盛り上がった。
あんな字を書くんだ~、私も名前を和風で書くときは、マネして「美流子」にしようかな。
美しく、流れて、渡る――
なんとたおやかで、潔さそうな名前であろうか。
私はミルトへの期待をいっそう昂らせた。

あとで調べたら、ミルトとはアイヌ語由来だった。
アイヌの人たちは、もともと文字を持っていなかった。
なのでミルトには<音>しかなかったのである。
アイヌの地にやってきた入植者が、勝手に漢字で「美流渡」と付けたらしい。
なかなかいい字を充てている。

生き物の「ラッコ」はアイヌ語だ。
「トナカイ」や「シシャモ」もアイヌ語由来。
そうしたアイヌ語の音が、どこかユーモラスで可愛らしいのは、アイヌ人の、生き物たちへの親しみの深さによるものだと私には思える。

それをよくあらわしているアイヌの習慣に、「送り」がある。
ロシア極東や、シベリアの北方先住民たちのもっている、すばらしい習慣である。

「送り」は命の終わりや別れの時に、なされる。
彼らは、自分たちの人生に出現したものをすべて「神」とみなしているのだ。
動物たちも、自然も、すべて人間に恩恵をもたらす「神」であると。
生き物だけではく、日常使用している物、もそこに入る。
物はすべて手作りだ。
手をかけ、時間をかけて。
編み上げる。
切(きり)梁(ばり)する。
積み重ねる。
出来上がった物には命が宿る。
物も生きる。
生かされる。

破損などで使用できなくなったり、不要になったりした物は、儀礼を伴って家のある一定の所に置かれる。それは、物の姿に変身して人間の世界にいた「神」を、(もとの)神々の世界へ送り返すということを意味するのだという。
だから「捨てる」という概念が、彼らには、ない*。
「物」も神々がそれらの姿に変身して人間に使われているのだと考えている。

それらの命が尽きるとき、彼らは「送る」。死後の世界へ。
彼らはなんでも送ってしまうのである。
有名なのは「クマ(熊)送り」。
クマだけではい、シカ(鹿)も、サケ(鮭)も、貝も、送られる。
それぞれ、「シカ送り」「サケ送り」「貝送り」される。
ようは人間に恵みをもたらしてくれたすべてに対して、それをやって生きてきた。

彼らがもともと居た土地に和人が入り込んできて、アイヌ人の暮らしや生き方が否定された時代があった。世界中で先住民が同じ目に遭っている。
美流渡の地も、そういう場所であったと思われる。
信じていたものを信じられなくなって、彼らの世界は壊れた。

当時は活気にあふれていただろう美流渡のいまは、静かだった。
国鉄・万字線の走っていた美流渡駅は、30年ほど前に廃駅となっている。
いまはただ、緑だけがまぶしいが、このあとの季節には真っ白い雪にすっぽりと覆われてしまうだろう。

あっちゃんと私が訪れた日、すれちがったのはたったの二人――道路工事の人だった。
工事のおじさんのほかには、鹿の一家。
森の小径を通っていたら、三頭の野生の鹿が、目前にまろび出てきた。

名前が似ているだけではなかった、美流渡と私。
森の奥には小さなダムがあり、青暗い水をたたえていた。

*<参考文献・『アイヌプリ』公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構・2012年>

<つづく>

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