第79回ダッタン人の踊り(1)吹奏楽との出会い

ダッタン人の話の前に、ここで私と吹奏楽との出会いについて、少し書いておこうと思う。

少し、と言いながら、けっこうな長さになってしまうかもしれない。

というのもこの件は自分そのもののようなところがあるからだ。

 

中学2年で、クラリネットと出会う。

以降、私は多くの時をクラリネット(途中から+サックス)とともにする。

中学2・3年~高校3年間は吹奏楽部で演奏することに熱中し、高校卒業後はジャズの<ビッグバンド>という演奏形態に転向した。

 

はじまりは、小学校3年生のときだっただろうか、母が朝日新聞に告知されていた「マーチの祭典」のチケット公募にハガキを出したら入場券が当たって、母と二人で武道館へ見に行くことになった。

それはその名のとおりマーチの祭典だった。自衛隊などいくつかのマーチングバンドが出場し、演奏を披露した。

マーチングバンドとは、歩きまわりながら演奏する吹奏楽団のことで、さかのぼれば17世紀のオスマン帝国時代にその原型が生まれ、日本では戦後、進駐してきたアメリカの軍楽隊によって広まった。吹奏楽のヒストリーと軍隊は切り離せないものだが、ここを追及するとまた長くなるので、いったん置く。

 

ステージでキラキラ光る管楽器がまぶしかった。

アンサンブルも美しく、ダイナミックな演奏は感動的で、歩きまわりながら演奏する(ドリルとよばれる)その姿やキビキビした動きにも、胸を打たれた。

「私も管楽器を演奏したい」――いやいや、もっともっと強い気持ち――

「私はぜったいに管楽器を演奏する!」との思いが私の心に芽生えたが、実行までには、もうちょっと時間がかかる。

 

ただ、自分に音楽の才能が少なからずあることを、私はすでに知っていた。なぜなら、4歳ごろからエレクトーンを習っていた私には、音感があった。

幼少期からヤマハ音楽教室に通っており、「サモア島」や「浜辺のうた」などをエレクトーンで弾いていたのだが、やがて耳で聴いた旋律を、聴いただけですぐ弾けるようになった。

父がテレビでよく観ていた時代劇『銭形平次』の主題歌、「人生楽ありゃ苦もあるさ~♪」も、すぐ弾いた。テレビやラジオから流れてくる曲を片っ端から弾いてしまう。つまり耳で音楽をコピーする。音が、自分のあたまのなかで即、音符になる。それはどうやら、誰にでもできることではないらしい。

 

耳で聞いた曲を、譜面を見ずに演奏する、つまり耳で音楽をコピーすることが得意だった私はエレクトーンの腕をグングン上げるだけでなく、小学校6年生からはフォークギターもはじめた。当時大学生だったお隣の家に住むお姉さんに習った。ここでも「オールフォーク」という楽譜集のだいたいを弾けるようになった。いよいよ念願の管楽器にアプローチする日も近いのではないかと思われたが、その日はまだやってこなかった。

エレクトーンやフォークギターの弾き語りは一人でやるもので、管楽器はちがう。いろんな楽器のほかの人たちと合わせることですばらしいものに成るということを、私はマーチの祭典をみたことで知っていた。

 

そうこうするうち、中学生になった。

ざんねんなことに、私の通っていた中学校には吹奏楽部がなかった

中学に入ったら必ず管楽器をやりたいと思っていたのに吹奏楽部がないときいてひどく落胆し、何を思ったのかバレーボール部に入ってしまった。

幼少期から得意だった音楽にすればいいのに、からきしダメな運動部へ。母がかつてバレーボールをやっていたことと関係あったのかなかったのか、いや単に目の前の先輩たちの、飛んだり跳ねたりする姿がカッコよかったというだけだったかもしれない。

 

バレー部の練習があまりにきつく、それまで肥満児だった私はみるみるうちに痩せていった。

毎日走らされるうえ、コーチを兼ねている顧問が、当時の私にはとても苦手な大人だったのだ。目つきが悪く、頭は禿げ上がり、背が低く、足が短い。奇怪な容姿だったが、アタックを打つときの彼は驚異的なジャンプ力を見せた。

顧問による一部の部員への依怙贔屓はひどく、贔屓されている生徒はきゃっきゃと楽しそうだが、贔屓されない私をふくむほとんどの部員たちは子ウサギのようにびくびくしていた。

彼はおそろしく気分屋で、気に入っている生徒にはいきなり抱きついたり、その一方で気に入らない生徒のことは無視しつづける。私などは、たまに目が合うと、三白眼で睨まれた。

いまなら確実にパワハラ・セクハラで問題視される教師といえた。

私はまじめに練習に出ていたが、顧問に抱きつかれてはしゃぐ部員と顧問への嫌悪感は、日を追うごとに増していき、それが態度に滲み出ないわけがない。私は不器用だったが冷静な子どもだった。大人に対しても寡黙に観察して、尊敬できないと、どこか見下すようなところがあったかもしれない。可愛げのない私はまちがいなく顧問に嫌われており、しだいに居たたまれなくなった。

ちょうどそんなころ、先輩たちの試合の準備で、組み立て式の審判台を用意していたとき、両手指をその鉄棒に挟むという怪我をした。

近所の三富医院で見てもらうと骨折ではなかったが、ひどい捻挫だった。それを機に私はバレーボール部を退部した。

 

やめてホッとした。

どうせ毎日たま拾いとランニングくらいしかしていなかったし、すっかり痩せて、見た目もまともになった。当時の女子中学生に圧倒的な人気だったCANの服が着られるようになった。襟が大きなピラピラのレースであしらわれている白いブラウスに、ピンクのトレーナーを合わせるのがお気に入り。そんな年相応の、かわいらしい中学生になっただけでもバレー部にいた甲斐はあったというものだ。

必ずどこかの部活に所属することが規則だったので、バレー部をやめたあと合唱部に入った。吹奏楽部があれば、いちもくさんで入りたかったが、しかしこのときもまだ吹奏楽部はない。

人と声を合わせるのもなかなか楽しかった。部員は女子しかおらず、女性三部合唱の、私はメゾ(メゾ・ソプラノ)を担当した。ソプラノに比べ、メゾの担う音の流れは抑揚に欠けるものだが、私はそうした主旋律でないハモりが、大の得意だった。自分はハーモニーをつくること――「ハモる」のが好きなのだなと思った。

<つづく>

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