ファーロード番外編 国立アイヌ民族博物館へ行ってきました(2)

新千歳空港から白老のアイヌ国立民族博物館まで一時間半ほどクルマで走る。
芹澤夫妻が迎えに来てくれなかったら、おそらく私は現場へたどりつけなかっただろう。彼らはまず、飛行機を降りてよろよろと出口に現れた私を迎え、愛車に乗せ、おにぎりを与え・・・といったことにはじまって、この旅の全行程において、私をサポートしてくれることになるのだが、当回には登場しない。ウポポイの真正面で私をおろすと彼らは、「オレたちキャンプに行くから」と、去ってしまったからである。

私ひとり、正門から博物館入口までの道を歩く。
あいにくの雨になった。ウポポイ一帯の散策はできないが、私の用は、国立アイヌ民族博物館館長・佐々木史郎氏との再会なのだ。
「一階の展示室にいますから、声をかけてください」
と聞いてはいたものの、足を踏み入れると、ほとんどすぐそこに先生本人がいらして、拍子抜けした。
「こんにちはーおひさしぶりです」
「遠くからありがとうございます」
さくっと再会を喜び合ったところで、先生の隣に立っているきれいなお嬢さんを紹介された。
「是澤櫻子さん。ミルコさんにぜひ紹介したかったので」
お名刺はアイヌ博物館の研究学芸部アソシエイトフェローとなっている。北方民族研究をされている史郎先生の後輩ということで、つまり私のクロテン研究にとっても重要人物となるのかもしれない。お会いできてうれしい。
展示室には、クロテンのほか小型から大型まで、さまざまな獣の毛皮が並べられており、自由に触れることができた。ヤクの毛など一見ゴワゴワしているが、じかに触れると妙になめらかだったりして、来場者の大人も子どもも、めずらしいものに触れられる貴重な機会を楽しんでいた。

ほどなくして、館長のミニトークがはじまった。サンタン交易のお話である(前回のファーロード番外編「国立アイヌ民族博物館へ行ってきました1」参照)。
「鎖国中」につき長崎など限られた港でしか海外貿易できなかったはずの江戸時代に、クロテンや蝦夷錦(龍などの刺繍の入った高価な絹織物)が日本と大陸を北回りで往来していた。その実態に迫る。クロテンたちの担ってきた経済がいかに壮大なものであったのかをクロテン作家としてはあらためつつ、ノートをとりながら楽しく過ごした。ほかのお客さんには初めて聞く話も多かったかもしれないが、柔らかくやさしい先生の語り口に、みなさん引き込まれていたと思う。

私のとなりに座っていた方を、史郎先生に紹介された。
枡谷隆男さんという、これまた大学の先生であったのだが、笛の研究をされているという。
そして私が元編集者の物書きであるという紹介を受けて、「これ、読んでください」と鞄からコピーを取り出し、渡された。「リコーダーよもやま話」とある。
<1980年、中央自動車道建設の際、山梨県笛吹市(旧一宮町)の釈迦堂遺跡で、縄文晩期のГ型の土製品が2点発掘されました。笛吹市は濁流に流された母を笛を吹きながら探した民話「笛吹権左衛門」にちなんだ地名で、我々笛吹には忘れてはいけない地です>とのくだりが目に飛び込んできた。へえ~。そうだったのか、笛吹市。私も笛吹きなので、覚えておこう。
そして、「お会いできたしるしに、これ差し上げます」と何やら小物をくださった。シカ笛だという。これを使う機会、私に果たしてあるだろうか・・・と思いつつ、ありがたく受け取った。

トークのあと、展示のある2階フロアへ。
<アイヌの誇りが尊重される社会をめざして>基本展示室では「私たち」という切り口で、「ことば」「世界」「くらし」「歴史」「しごと」「交流」6つのテーマを、アイヌ民族の視点で紹介しています――と。誰もが立体的にアイヌ文化を学べる入門編のような、親しみやすい内容となっている。アイヌとひとくちに言ってもいろんなアイヌがあり、「国立」の先住民の施設づくりなど本来無謀、こうじゃないああじゃないと喧々諤々の議論を経て、ここへたどりついたのであろう。準備にあたった先生方やスタッフみなさんのご苦労は計り知れない。

出口手前でふと顔を上げると、大きなスクリーンにクロテンの顔がアップで映しだされていた。アイヌ文化を紹介するための新しい博物館に、私のクロテンも欠かせない存在として参加しているもよう。クロテンに続いて北海道の大自然と生きものたちの映像が流れ、最後の撮影クレジットには、伊藤健次さんとあった。私が『毛の力』でウデへの村・クラスニヤールを旅したとき、同行してくださった野口栄一郎さん(NGOタイガフォーラム/先住民族問題研究会)にご紹介いただいた写真家の方だった。野口さんとも、そもそもは史郎先生にお名前をお聞きしたことから始まっている。私がいまここにいること――これまでのすべてのご縁をありがたいと感じながら、祈るようにクロテンを見つめた。

館長室の大きな窓から、ウポポイ施設一帯の景色が見渡せた。史郎先生は毎日この場所で、執務にあたっておられる。雨が上がって気持ちよく晴れた。しばし先生と館長室で歓談。
私の近況もお話させていただくなかで、こう言った。
「いま私の心を占めているものは、ミンなんです」
もちろんここで「ミンってなに?」とはならない。ミンといえば「明」。
「あ、でしたら、ちょうどよかった。これを差し上げましょう」
と言って、先生はデスク付近から冊子を取り出して、私にくださった。
「明なら中村和之先生、この中でも引用していますから。どうぞ」

以下引用。<「山川歴史PRESS」No.12 歴史総合(2023・2)「北方の国際貿易と蝦夷錦」佐々木史郎>

アイヌ民族はもともと北海道だけでなく、南は津軽半島、下北半島から北はサハリン中部、北東は千島列島からカムチャッカ半島の南端にまで居住地域を広げていた。このような居住分布は恐らく15世紀には成立していたと考えられる。とくに北のサハリンについては13世紀にはすでにアイヌが暮らしていた。それは、中国の元王朝(1271~1368)の時代を記した公式記録である『元史』や当時の文章をまとめた『国朝文類』(または『元文類』)に登場するアイヌの祖先と思われる集団の動きから知ることができる。ちなみに元とは、チンギス=カン(原文ママ)が興したモンゴル帝国が中国を支配するときに名乗った王朝名で、正式には5代目クビライ(ママ)の時代から使われる。その『元史』によれば、1264年にモンゴル軍が海を渡って「骨嵬(クギ)」と称する人々と闘い、彼らを破ったという。ここに登場する骨嵬は、アイヌの祖先を指すといわれる。また、モンゴル軍が海を渡って行った先は現在のサハリンである。
骨嵬はその後1280年代から1300年代にかけてモンゴル軍と武力衝突を繰り返し、ときには間宮海峡をこえて大陸側にも攻め込むことがあったが、1308年にモンゴル側と和睦し、毎年、毛皮をたずさえて朝貢することになった。(引用ここまで)

私の「ファーロード」と「スパイスロード」がここ白老で、つながろうとしていた。

<つづく>

引用論文内参考文献;中村和之「中世・近世アイヌ論」『岩波講座 日本歴史20 地域論(テーマ巻1)』岩波書店2014年所収

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