第75回マラッカ王国のナゾ(7)マルコと鄭和

まずチャンバ(占城)へ、そこからボルネオ島の西を通って南下してジャワへ――、と鄭和の航海がはじまったところまで前回書いた。
鄭和の初出航は1405年のことだが、その100年以上前にマルコ・ポーロが中国地方を見聞したときもやはり同じルートが使われている。かなりざっくり言うと、マルコから鄭和まで100年、鄭和からマゼランまで100年・・・マゼランの世界一周でようやく「地球はまるい」というのだから、マルコの旅も鄭和の旅もどれだけ果てしなかったことか。

マルコはヴェネチア(ベニス)商人貴族の子だった。
5世紀に建設されたヴェネチアは、12世紀から十字軍の武器や食料を司る基地であったと同時に近東貿易の中心地としても繁栄し、<アドリア海の女王>とよばれる経済都市だった。
ニコロ・ポーロとその兄弟マフェオが当時ヴェネチアの勢力下にあったイスタンブールへ行き、そこから黒海を渡ってクリミア半島を経由してキプチャク・ハン国(チンギス・ハンの孫・バトゥが1243年に建国)へ。そこで戦が起こって帰路が閉ざされたためカスピ海の北を通ってトルキスタンのプラハへ。その滞在中にフビライ・ハンと出会う。ヨーロッパ諸国の話を兄弟からあれこれ聞いたフビライはよろこんで、彼らを使節として雇うことにした。そうしたなか、フビライの用で兄弟はいったんヴェネチアに戻る機会があり、ふたたび東方へ向かうさいに、ニコロは息子をともなった。この息子が、マルコ・ポーロだ。

マルコはおよそ17年間、フビライに仕えたという。こう聞くとき、私は自分の尺度――「出版社にいた20年」という時間を持ち出して、マルコらにもさぞかしいろんなことがあっただろう・・・などとつい労いたくなるのであるが、ここは鄭和のコーナーなのでひとまず省く。

あるきっかけから(イルハン国に元朝の皇女・コカチン姫が嫁ぐこととなって、その旅のお供をすることに)、ポーロ・ファミリーは故郷イタリアへ帰れることになる。念願を叶えるその旅先で、彼らはフビライの死を知る。
チャンバからインドシナ半島の東岸を南下して、マライ半島(参考文献の原文ママ)に沿ってマラッカ海峡を通過し、スマトラ島経由でセイロン(スリランカ)に到った(1292年)。

ところでマルコ・ポーロといえば『東方見聞録』だが、マルコが書いたものではなかった。マルコがヴェネチアに戻った1298年にヴェネチアとジェノバの両軍が衝突し、ジェノバが勝利、ヴェネチア軍の特任将校として戦ったマルコは、ジェノバに捕らえられた。そのとき、同室となった囚人に、文筆家がいた。ピサ人のルスティチアノ、彼が獄中でゴーストライターとなって、マルコの話を書いたということである。
1299年、ヴェネチアとジェノバに和議が成立、マルコも釈放され、余生を送った(1323年没)。

マルコから鄭和へ、話を戻そう。
ジャワでは良質のコショウやナツメグ、白檀などがふんだんに採れた。それらを満載した鄭和の戦隊は、さらに西へとすすみ、バンカ海峡を通ってパレンバン(旧港)に到着する。
パレンバンは、シュリビジャヤ王国発祥の地であるが、当時はジャワのマジャパヒト王朝に属していた。
ジャワもパレンバンも古くから中国との交流がさかんで、中国から渡ってきた人も多く住み着いており、中国の銅銭が使われていた。
地元の人びとの多くが水上生活をいとなみ、イスラム教ではなく独自の信仰をもっていたようだ。肥沃な土地では稲作もさかんにおこなわれていた。

鄭和はパレンバンから北西に針路をとり、マラッカへと進んだ。
<つづく>

参考文献
『落日の大帝国 人物 中国の歴史8』(集英社)より、「フビライ汗とマルコ・ポーロ」植村清二

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