私が20年にわたった出版社勤めをやめて、闘病をへて、はじめて書き下ろしの原稿に取り組んだのが、毛皮獣・クロテンについての話だった。本は『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』というタイトルで2014年の年末に出版されたのだが、その本を書くにあたり、いちばん最初にお会いした人物が、北方先住民研究者の佐々木史郎先生だった(現在は「国立アイヌ民族博物館」の館長さん)。
当時、佐々木史郎さんは「みんぱく=国立民族学博物館)の教授だったのだが、その後、東京オリンピック2020のタイミングで開館予定の「国立アイヌ民族博物館」立ち上げに携わることになり、北海道大学内の準備室に異動された。
拙著における氏とのやりとりについては、第7~9回「サンタン人のクロテン交易①~③に書いているが、本が出版されたあともありがたいことに交流がつづき、この十年のあいだにロシアの友人を交えてお食事をご一緒したり、研究者の集まりでお会いしていた。国立アイヌ民族博物館(以下、アイヌ博物館)ができるまでのご苦労もそうした機会にうかがっていたので、アイヌ博物館オープンのときは自分も感無量だった。しかしその後のアイヌ博物館の歩みは、新型コロナウイルスの蔓延とともにあった。
ようやく終息がみえてきたこの春ごろから、そろそろいかがだろうかとちょうど思っていたところ、先日、佐々木館長から久しぶりのご連絡をいただいた。
大変ご無沙汰してしまっていて、すみません。お元気ですか?
さて、5月に「毛皮イベント」を実施することになりました。
今年の博物館の毛皮イベントは5月27日(土)、28日(日)です。
場所は博物館1階の交流室で、沢山のもふもふの毛皮が集まります。
網走の北方民族博物館と北大の北極域研究センターの事業とのコラボです。
比較的若い人たちが企画しています。
私の簡単なトークもあります。
もしお時間があるようでしたら、是非お越し下さい。
お待ちしています。佐々木史郎 国立アイヌ民族博物館
このタイミングで行かぬ手はないだろう。
史郎先生(こうお呼びしているので、これで進めさせていただく)のメールにあった「もふもふ」の文字にノックアウトされるように、私の研究対象であるクロテンをめがけてたくさんの人びとが集まるという勝手なイメージがふくらんで、私のあたまと心はパンパンになった。
クロテンはかわいい小動物であるとともに、かつてはその毛皮を狙われて、ひどい目にあった。人間にとってクロテンは、贅沢な交易品だった。
商品としてのクロテンがロシアを西へ東へ行き来した話は『毛の力』に書いたが(一部は本サイトにも掲載している)、じつは日本も、かつてクロテンと大きなかかわりがあった。クロテンは現在の北海道や樺太・千島列島から大陸へ、さかんに輸出されていたからである。「サンタン交易」と呼ばれている。史郎先生はその「サンタン交易」の専門家だ。先生の論文より、以下引用。
サンタン交易とは江戸時代に、現在のサハリン島で栄えた交易活動である。そこにはサハリンの住民である「蝦夷」や「スメレンクル」、「ヲロッコ」と、大陸からやってくる「サンタン」と呼ばれる人々、そして日本側からは和人が参加していた。ちなみに、蝦夷とは江戸時代当時、北海道、サハリン、千島列島にいたアイヌ系住民をさし、スメレンクルとはサハリン西海岸からアムール川最下流域ニヴフ(旧称ギリヤーク)の祖先をさす。ヲロッコはサハリン北中部にいたトナカイ飼育を行なう人々である。ただし、この呼称は江戸時代当時の呼称で、差別的意味合いをふくんでいるため、現在は自称に従い、「ウィルタ」と呼ぶのが正しい。サンタンとはアムール川下流域のツングース系の言語を話していた住民で、大部分が現在のウリチという民族の祖先にあたる。
江戸時代を通じて対等な交易相手から松前藩や幕府に支配される存在に変わっていったアイヌの人々と異なり、サンタン交易の担い手であるサンタンやスメレンクル、ヲロッコは当時中国の支配下にある人々(属夷)とみなされた。そのために、彼らとの取引は純粋な対外交易とされ、長崎以外での対外貿易を禁じた幕府の方針に抵触していた。したがって、当初松前藩はサンタンやスメレンクルとの直接の接触を避け、サハリンや北海道北端の宗谷にいたアイヌの人々を介して取引していた。(引用ここまで)
このあたりは、今回のテーマとなるのであろう。
国立アイヌ民族博物館へ、行くことは即決した。
問題は、アクセス方法である。北海道の白老・・・いちど電車で通ったことがあるが、とても遠い。やはり飛行機だろうか・・新幹線で函館へ行ったことがあるけれど、長時間で乗り換えもあり、くたびれた。お金もけっこうかかる。飛行機のほうがだんぜん安い。
しかし私は2019年の年末にシンガポールで大怪我をやって以降、飛行機には一度しか乗っていなかった。シンガポールのチャンギ空港から骨折したてのまま羽田空港へ移動したときの苦労と激痛がトラウマになっているのだ。
シンガポールのあと飛行機に乗った一度きりは、鳥取便だった。もう二年前になるのか。鳥取の酒造さんにお仕事をいただいて、飛行機で行った。行きはなんともなかったが、帰りはおおいに揺れた。
飛行機、こわい。でも、行きたい。もふもふ。
史郎先生はもちろん、北方民族博物館と北海道大学の北極域研究センターの先生方にも会える機会なんて貴重である。
私は思い切って飛行機に乗ることを決め、ANAやADOのサイトでよさそうな便をチェックした。と同時に、芹澤君(=てつりん)に連絡した。彼は、スイングジャズ研究会で同期のギタリスト、その妻・あっちゃんは 『ミルコの出版グルグル講義』に出てくる、一緒にミルト(美流渡)へ行った<あっちゃん>である。また芹澤家にホームステイさせてもらえないかと彼に連絡してみたところ、すぐにOKの返事が来た。
<つづく>
参考文献
『港町と海域世界』(歴史学研究所編 責任編集=村井章介 青木書店)より、「北東アジアの河川、海上交通とその拠点」佐々木史郎
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