シンガポールへ初めて行ったのは、会社をやめて、闘病をへて、三年過ぎたころである。
出版社勤務時代には縁のなかったシンガポールへ、何度か行くことになった。
一度目はシンガポールに住んでいた中学校の同級生・オトちゃんと、その後は単身で渡航した。滞在中は、現地に住む友人・カズミちゃんのお宅に泊めてもらった。カズミちゃんも中学時代の同級生である。
カズミちゃんの住まう「ビーチロード」という地区にホームステイしながら、本を手にあちこちをまわった。
「晩晴園」へは、彼女のパートナー、ショーン君(写真)も仕事休みの日に付き合ってくれて、バスに乗って三人で出かけた。「晩晴園」=孫文記念館(Sun Yat SenVilla)は、孫文本人がここに住んだこともある館だ。バスを降りると「えーっ、これ⁈」というくらい街中でひときわ目立つ大きな館が目に入る。ここには孫文ゆかりの品々が展示されているということだったが、それだけでなく日本軍が戦時におこなった華僑大虐殺の犠牲者の遺品も、集められているらしかった。
「え?シンガポールで大虐殺?」
ですよね、だっていまの華やかな都会兼アジアンリゾートのイメージに、<虐殺>という言葉はあまりに合わない。日本人にとってのシンガポールといえば、きらびやかなカジノや豪勢なホテル、オーチャード通りでのショッピングや、セントーサ島のレジャー施設などを楽しめる明るい観光地だもの。だいたいシンガポールを日本が占領していたことさえ知らない、もしくは忘れている人が多い。しかしシンガポーリアンはちっとも忘れていない、もしくは忘れまい、としている。「やった方」はすっかり忘れていても「やられた方」はぜったいに忘れていない――。
たとえば観光地・セントーサ島の中央にある「蝋人形博物館」の第二次世界大戦コーナーでは、日本が受けた原爆被害を展示していたのである。原爆によって日本軍は敗北したので、原爆が日本軍の暴走を止めてくれた、つまり原爆はシンガポールを苦しみから解放してくれたものだ――という流れで紹介されていた。
過去に日本軍がここで何をやったのか?
1942年2月15日から1945年8月18日まで、日本軍によってシンガポールは占領されていた。その間、日本軍はシンガポールを「昭南島」と勝手に改名、この地で暴れまわる。たとえば、なんだかんだ言いがかりをつけ、市街地に住む住民を捉え、暴力を振るうなどしたらしい。華僑の「抗日」組織を洗い出すためだったというが、やり方がひどすぎた。ほとんどがでたらめで、罪のない人びとを恐怖のどん底に陥れたという。
「抗日」の疑いをかけられた住民は海岸や山間に連れて行かれ、機関銃で殺され、遺族は生活苦に追いやられた。「大検証」と呼ばれたその大虐殺の詳細について、下記参考文献はじめ、長年現地をくまなくまわり、そこで得られた生の証言一つ一つに考察と検証を積み重ね、周囲の圧力に屈せず研究をつづけられた方々の書物や資料に、私たちはあたることができる。それらに疑問をもつ声や別の見方も出て、この件はのちに「教科書問題」としても長らく物議を醸すことになるのだが、そうは言っても、日本であれこれ言ったところで、やられたほうはぜったいに覚えているものだ。もう一度くりかえす。「やった方」はすっかり忘れていても「やられた方」はぜったいに忘れていない。
シンガポール島南部の海岸付近「戦争記念公園」に、ひときわ白く天を衝くように高く聳える塔がある。約68メートル。てっぺんが見えないほど、高い。
「あの件はぜったいに忘れまい、いつまでもおぼえているぞー!」という証に作られた「血債の塔」だ。大虐殺「大検証」犠牲者の墓であり、慰霊碑である。
1960年代になって、シンガポール国内の大規模住宅開発(政府による高層アパート・HDBフラットの建設、およびそこへの国民移住政策)が進み、これによって「大検証」で殺された人びとの人骨が、次々掘り起こされることになった。大虐殺から20年近く経っていた。海岸で殺害された人たちの骨は海に流されてしまったが、島内で殺された人たちの骨は、あちこちから出土した。その遺骨が集められ、「血債の塔」のもとに埋葬される。被害者の無数の骨の上に立つ「血債の塔」は、大虐殺から25年目の1967年2月15日に完成した。
<つづく>
※参考文献
『観光コースでないマレーシア・シンガポール』(陸・培春著、高文研)
『旅しよう東南アジアへ 戦争の傷跡から学ぶ』(高嶋伸欣著、岩波ブックレット)