第67回続・シンガポールにホームステイ

ふたたびシンガポールへ行くことになった。
前回の滞在は2013年の春。その年の終わりから、私は一冊の本を書くために引きこもり生活に突入。取材以外では、ほとんど出かけることをしなくなっていた。
久しぶりの南方へ、飛行機で行くなんて緊張した。
地上を離れるのがこわく、外国人がこわく、自分以外の人はみんな元気に見えた。

マレーシア航空。機内に日本人は少ない。
飛行時間約7時間、ほとんどの時間を読書で過ごした。
ごはんはベジタリアンメニューをあらかじめ頼んでおいた。
美味しいランチをいただいたあと、お手洗いへ。
機内のトイレが壊れて行列ができていた。
みんなの糞尿はいったいどこへ?
だれが清掃してくれているのだろう。

クアラルンプールで、いったん降りる。
成田出発の出発時刻の遅れによって、乗り換え時間はほとんどなかった。
にぎやかにブランドショップが並んでいるが見る暇もなく、ライナーで次のゲートへ。
いよいよ日本人、いない。

クアラルンプールからシンガポールへの一時間のフライトではなるべく目をつむってじっとしていた。となりの中国人の若い男がものすごいいびきで、口をあけて寝ている。我が家の父の昼寝姿を、思い出した。

入国審査で少々待たされたが、預け荷物はなかったのですぐに出口へ進むと、ガラスの向こうにカズミちゃんとショーンの姿が見えた。
会うなりハグ、そして記念写真。日本にいる共通の友人に、SNSで写真を送った。

タクシーで家のあるビーチロードへ。HDBフラットの15階。シンガポール川と、大きなスタジアムが見えた。
荷ほどき後に、三人で乾杯。ショーンは焼酎、カズミはビール、私は水で乾杯した。

二人のお宅に泊まるのは初めてではなかったが、電源の位置やお湯の出し方などひととおり室内の使用説明を受ける。
「あとは自由に使って」
と、鍵をもらった。鞠のキーホルダーが揺れた。

私には6畳ほどの部屋が与えられた。
ベッドと学習机、洋服掛けがあるくらいで、スッキリと片付けられている。
しばらく誰も使っていないのだろう、ベッドには糊のきいたきれいなカバーがかけられている。そのベッドは、けっこうな高さがあった。よいしょ、っと「よじ登る」感じで上がり、大の字で寝そべった。
気温は30度を超えているはずなのに、蒸し暑くない。大きな窓から、ほのかに潮の香りをはらんだ夜風が、ゆったりと入ってきた。

朝。自分の部屋からでると、言われていたとおり、カズミもショーンも、すでに仕事へ出かけて、もういなかった。
昨夜は賑やかだったリビングに、今朝は誰もいない。静まりかえったダイニングに、一人腰かける。
テーブルに置き手紙。
「よく眠れた? 冷蔵庫にあるものを何でも食べてね。冷凍庫にあるライ麦のパンに、オーガニックのピーナツバターを塗るのが、ショーンのお気に入り。Let‘s try!」

ノロノロとキッチンの蛇口をひねり、ティファールに水を入れてお湯を沸かす。
お気に入りの紅茶は、日本から持ってきた。水色の紙パックを開けてマグカップに入れ、茶葉のティーバッグに湯を注ぎ、手紙のとおりパンを冷凍庫から出してトースターに突っ込んだ。
きつね色にうまいこと焼けた。ショーンおすすめのピーナツバターを載せて一口齧ると、口のなかに香ばしいライ麦の味がふんわり拡がった。

部屋にひとり。静かである。
あらためて、ぐるり部屋を見渡してみる。
玄関に水槽が置かれている。
小さな魚たちが、気持ちよさそうに泳いでいる。
共働きカップルの不在中、この空間を、彼らがいつも見守っている。
ベッドルームの入り口のドアが少し開いていて、テニスラケットが置いてあるのがちらっと見えた。カズミちゃんはそういえば中学時代、テニス部だったことを思いだした。

外は曇り。でも寒くない。
冬のシンガポールは熱すぎず、過ごしやすいのだ。
ただし時折、急激なスコールに見舞われる。
「出かけるときには必ずこれを持ってでるように」と、カサとカッパが玄関に用意されていた。

なんだかとても眠い。そして心地よくだるい。
このまま溶けて、自分の身体がスライムのように、床へと流れ出てしまいそうだった。
なんと言ってよいのか、日本での暮らしで溜まっていた澱が、浄化されていくような・・・
こんなふうに一人きりでぼんやりとする時間、あんがいなかったかもしれない。

しばしスライムを楽しんだあと、外へ出る気が起きた。
さあシャワーを浴びよう。きのう着ていた下着の洗濯もしなければ。
パン皿と食器をキッチンのシンクへ運ぶ。カズミちゃんはほんとうにおうちをきれいにしているので(彼女のお母さんと一緒だ)、汚してはいけないと思い、こわごわ作業。よけいなゴミも出さないように。

ゆっくり、お湯をいただいた。
髪の毛がたくさん抜けるので、気をつけながらシャワーを浴びる。
シャワールームも真っ白。ほんとうに彼らはきれいに住んでいる。汚さないよう、抜けた毛を完璧に片づけた。

湯上がりに、日本から持ってきた新しいワンピースを着てみた。
オレンジとベージュのツートーンになっている。ユニクロで1000円だった。セールの山の中から適当に掘り出したものだが、着てみたらぴったりだった。胸元が開きすぎのような。YUKITORIIのスカーフをもってきていたので、それで胸元を埋めてみる。

洗面台の大きな鏡の中の、自分を眺める。
カズミちゃんも毎朝この鏡の前に立ってお化粧をし、オフィスに向かうのだなと思う。
あれ、目がゴロゴロ。よく見たら、目のまわりが真っ黒。
きのう成田を発つ前、空港の免税店で目のまわりの化粧品を買った。
使い方指導でお姉さんがお化粧してくれたのだが、そのバッチリすぎるアイメイクが残っていたらしい。ラメが入って、目がゴロゴロするのだろう。

洗濯も終わって、着替えも完了。
そろそろ外にでてみようかと思うが窓から差し込む日差しが強くて、勇気がでない。
ここは都心の一等地。朝から晩まで、騒音がなりやまない。ひっきりなしに行き交う車の音が、路面から離れた15階のこの部屋にまで、届く。
かつて住んでいた、六本木の部屋を思い出した。
六本木とちがうのは、モスクから聞こえてくる祈りの声、ゆうゆうと流れてくる人の声が、車の音と重なっていることである。

<つづく>

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