第61回本は死ぬのか生きるのか?

「10万部です」と謳われた本が、「10万部売れた」のではなく「10万部刷った」であることは、すでに多くの人の知るところだと思う。

「刷った」だけで「売れている」とはかぎらない。

10万部刷ったが半分も売れていないということだってある。

これはたんに出版社がホラ吹きということではなく(多少はあるかもしれないが)、出版の流通システムから、こうなっている。

 

本はていてい出版社と取次と書店と倉庫を行ったり来たりしながら、グルグルとまわっているのである。

注文があれば倉庫から出荷されるが、売れ残りの本も倉庫に戻ってくる。

売れたことになっているのにじっさいは売れていない、ということもある。

 

本たちはどこにいるかというと、倉庫で待機している。

注文が来るのを、じっと待っているのである。

注文が溜まれば、外へ出るよう呼ばれるが、しばらく経っても呼ばれなければ、ある時期でクビを斬られる。「断裁」だ。

 

誰がそれを決めるかというと、出版社が決める。

「この本はもう人気がないから、斬ります(断裁します)」

それが本への、死の宣告だ。

 

「ずっと倉庫に置いておけば? 腐るものじゃあるまいし」

そうは言っても、倉庫スペースには限りがあるし、在庫は会社に負担をかける。置いておくと倉庫保管料も税金もかかるのだ。

したがって出版社は、どんなに思い入れのある本にも、ある段階で見切りをつけて、死刑台へと送り出す。

 

若い人に「編集」を教えることになって、私は思いついた。

本が生まれるところをやるならば、本が死ぬところも踏まえなければ――と。

けれどこの考えはおそらく、私自身が編集者をやめていなければ、出てこなかっただろう。

私が一時期のように、作って作って作りまくっている現役編集者であったなら、ちがったと思う。

 

本は死ぬのか生きるのか?

グルグルなのか?

グルグルはグルグルでも、正しいグルグルの中にいまあるのか?

出版業界から降りた者だからこそ、こだわれるところなのである。

 

河出書房新社の小野寺さんから紹介を受けて、河出OBの野澤さんと会うことになったところまで前回、書いた。

私はゴールデンウイーク明けのうららかなある日、東武東上線のみずほ台という駅に降り立った。

待ち合わせの10分前だったが、改札口を出たところにおじさんが立っていた。

「野澤さんですか?」

と声をかけると、

「ちがいます」

と言われた。

あらら・・・と居直ったところへ、別のおじさんが近づいてきて私に頭を下げた。

野澤慎一郎さんだった。

野澤さんは、ツアーコンダクターが空港でお客さんを待つときのように、大きな紙に私の名前を書いて、それを掲げて待ってくれていたらしい。

なぜすぐ、気づかなかったのだろう。

立派な年配の男性がそんなふうに待ってくださっていたことを知って、私は恐縮した。

河出の人から、「野澤さんは伝説の熱血営業マンですよ」と、聞いてはいたが、お会いした瞬間から、野澤さんはピシッと腰を折り曲げ、キビキビとした動作で私を駅のロータリーへと、導いた。そこに車が用意されており、もうお一人男性が降りてきて、挨拶をされた。古紙再生会社の「富澤」の取締役、伊福洋さんだった。

『偉いおじさんたちに、こんなによくしてもらっていいのだろうか・・・小野寺さんの紹介だからだろうか、それとも私が売れっ子の作家だというまちがった情報でもいっているのだろうか・・・・』

私は何度も頭を下げながら、後部座席に乗り込んだ。

<つづく>

*『ミルコの出版グルグル講義』(河出書房新社)収録・「本が生まれて死ぬまで」を一部改稿して掲載しています。
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