第46回ダーチャに泊まる①

ダーチャへ行くことになった。私にとってはたいへん急な話だった。
ロシアの7月は陽が長い。5時に仕事が終わったあとも、遠出を楽しむことができる。
その日のお勤めを終えたイリーナは、ワロージャの運転で私を迎えにきた。
郊外へ出てからしばらく山道を走った先に、ダーチャの点在する集落が見えてきた。
車の窓を開けると濃い緑の匂いがした。

イリーナのダーチャはチタの中心街からわりと近く、しかしほどほど遠く、とても良い場所にあった。
ダーチャに到着すると、愛猫クリスの入ったカゴと荷物を下ろし、母屋に入れた。そこにキッチンとダイニングテーブルがあって、私に椅子をすすめると、イリーナ自身はさっそく目の前の畑に出て、しゃがみこんでそれらの手入れを開始した。
野菜や花にたっぷり水をやり、しばらくすると両手いっぱい採れたての野菜を抱え、ダイニングに戻ってきた。

野菜の中からニンジンを取り出してスライサーで皮をむき、ニンニクと塩とマヨネーズでサラダを手早く作ってくれる。
メインディッシュは、カルプ。昨日ワロージャがさばいてイリーナが調理してくれた脂たっぷりの大きな魚=カルプを持ってきていた。

ダーチャの庭の丸テーブルに三人で腰掛け、夕食となった。
途中のスーパーでワロージャが買ってくれたビールを開ける。よく冷えたビールを久しぶりに飲んだ。魚のカルプは一晩おいて、さらに美味しくなった気がした。

ご飯のあと、ダーチャ敷地内の畑をワロージャが案内してくれた。
彼は一つ一つの作物について解説をしながら、どきどき木の実をその場で採って、私の手のひらに載せる。口に入れると甘酸っぱい味がひろがって、土の栄養をもらったと感じる。

イリーナのワロージャと私

畑の見学を終えた頃、ワロージャが車を出す準備をし始めた。陽が落ち、涼しくもなってき、そろそろ町へ戻るのかと思ったら、そうではないことが判明した。町へ戻るのはワロージャ一人で、イリーナと私はここに泊まることになっているという。
『えーっ⁈ そんなこと聞いてないよ~』
いや、どっかで私に言ってくれていたはずで、私がちゃんとロシア語を理解していなかっただけにちがいなかった。しかし私は泊まるつもりでダーチャへ来ていない。なんの準備もできていない。ここは高原、やはり標高が少し高いせいか、なんとなく頭も痛くなってきていて薬を持参していないのも心配だった。

ダーチャの敷地内にバーニャ(お風呂、ロシア式サウナ)もあり、ベッドルームも清潔そうで、全て快適に過ごせるように整えられていたが、それでも私は心配だった。
パジャマのズボンも持ってきておらず、ちゃんと準備しないで寝ると風邪をひくに違いない。ここで体調を崩しては・・・いやすでに崩れはじめているかもしれず、そういえば頭痛がどんどんひどくなってきている気がし、用心深い私はやはりここで泊まるわけにはいかない、なんとか断らなくては――とその場で判断した。

拙い言葉でなんとか意思を伝えたところ、イリーナは私が「泊まりたくない、ホテルへ帰りたい」というようなことを言ったことに、かなり落胆したようだった。
「ニチェボー」(気にしないで)と口では言ったが彼女のがっかりは、そのままダイレクトに私のハートを射抜いた。つねに互いの心の中を読もうとコミュニケーションを慎重にとっているので、テレパシーのごとく通じ合ってしまう。
大好きなこのダーチャで、私をもてなそうとあれこれ考えて迎えてくれたイリーナの気持ちを反故にして、私は胸が苦しくなった。

しかしガンサバイバーである私は丈夫でない。無理は禁物。とても申し訳なく思っているが、ここで体調を崩し、あとでもっと迷惑をかける事態はなんとしても避けたい。だから今夜はチタ市内のホテルに帰り、ちゃんと外泊に備えて用意をし、あらためてダーチャへ来たい、今夜はせっかく私をダーチャへ招いてくれたのにほんとうにごめんなさい――と、ロシア語で言いたかったがうまく言えず、その申し訳なさと情けなさで胸がいっぱいになった私は、なんとその場で泣いてしまったのだ。

私の突然の涙に、イリーナとワロージャが困惑したのは言うまでもない。
泣くなんて、サイテーだ。
もう明日から合わせる顔がない・・・
そう思うとますます涙が止まらなくなった。

<つづく>

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