第45回「シベリア出兵」とチタ

チタという町に住む研究者のイリーナさんに会うため、私はハイラルから国境を越えた。彼女の本に私はイルクーツク大学図書館で出会い、彼女を訪ねることになったわけだが、そのくわしいいきさつは、もう少しあとで書く。

イリーナ氏との面会について、事前交渉はロシア語を話せる友人のサトルに、頼んであった。彼は総合商社勤めで、仕事内容でいくと私の父の後輩にあたる人だった。つまりロシアの木材を扱っている商社マンだ。
「〇月×日、△便でミルコという日本人が会いに行きます」
サトルの出した、たったそれだけのメッセージをフェイスブックで受け取ったイリーナさんは、その日チタ空港でちゃんと私を出迎えてくれた。

会いたかった人に会えた喜びもつかの間、私たちは言葉が通じなかった。イリーナさんは英語が得意でなく、私もロシア語の勉強を始めたばかりで、キリル文字にようやっと慣れたていど、会話はてんで駄目だった。それなので私は出国前にサトル経由で日露通訳のプロを頼んであったが、その人が大雨で来られなくなったのである。

通訳さんはイルクーツクからチタに来てくれる予定だった。しかし大雨で道がふさがって、とても移動できない、たいへん申し訳ないという彼のメールを私が受けっとったのは、北京に入ったあとだった。私は急ぎ、サトルに相談した。
「通訳さん、雨で来られなくなったって」
「あ、そう」
サトルにおどろいた様子はなく、ロシアではしょっちゅう起こることだと言った。
ロシア・シベリアの田舎道はほとんど舗装されておらず、ふだんからガタガタで、大雨になると道がすぐに遮断される。ロシアを訪れ、ロシア人とつきあうなら、そうしたパプニングやトラブルも含めて楽しむことだと彼は言い、「じゃ、あとは自力で!」と私を冷たく突き放したのである。

私を迎えたイリーナも、私が通訳をともなっていないことに怪訝な顔をして、
「ペレボーチクはいつ来るの?」
と、私に聞いてきた。
「ニエット、ペレボーチクは来ない」
と私が言うと、ぱっちりした目をさらに大きく見開いて、じゃあ私たちはいったいどうすればいいの? というように、あきれ顔でため息をついた。
ロシア人はわりとよくため息をつく。

だいたいチタという町に一人も日露通訳がおらず、遠く離れたイルクーツクから呼ぶしかないということ自体、おどろきだった。その話を聞いた時点で、チタに日本人はもう一人も住んでいなかったらしい。
100年前には「シベリア出兵」で、多くの日本人がこの地に来たというのに。
最大7万2400名という膨大な兵力を投入してソ連の内戦に介入し、大量の血を流し、何も得ることなく当時の国家予算ほぼ1年分をムダにした暗い過去――「シベリア出兵」(1918−1922)。その主な舞台がここ、チタなのである。過去の栄光である「日露戦争」とちがって、日本ではほとんどなかったことのようにされているこのおせっかい戦争、日本は忘れていても、むこう(ロシア)はちっとも忘れちゃいない。

サトルにあっさり切られて私はいったん途方に暮れたが、北京のホテルで玉子とキクラゲの炒め物を食べながら、こうなったらもうぜったい<結果オーライ>の旅にするぞ~と肝に命じた。
そうして相対したイリーナと私は、困惑しながらもお互いの目をいっしょうけんめい見つめあい、身振り手振りを観察し合い、どうにかこうにか意思の疎通をはかるよう、それからの日々を過ごしていくことになった。最終的に、私がチタを離れる頃には心が通じ合いすぎるくらい親しくなるのだが、そこまでの道のりには、それなりのものがあった。

私がチタに入ったのは週の始めで、空港に到着した日は自宅に招いてくれた。イリーナは、ワロージャという軍の仕事をしているらしき夫と二人暮らしだった。
採りたてのカルプという大きな魚をオーブンで焼いて、私の来訪をもてなし、食後はすでに独立した息子や孫たちのたくさんの写真を見せながら、チタでの暮らしについてあれこれ話してくれた。といっても通訳がいないので、私は懸命に彼女の表情から言いたいことや思いを汲み取ろうと努力した。漂流船でカムチャッカ半島に着いてしまった最初の日本人もこんな感じだったのかなあ?とか思いながら。
平日は二人ともお勤めに出ている。その晩は私をホテルに送り届け、翌日以降も彼らは仕事の合間を縫って、私のアテンドをしてくれた。

週の後半にさしかかり、イリーナは私のために休暇を取ってくれたようだった。
「ダーチャに行くよ」
そう言われてないはずがないのだが、私はよくわかっていなかった。
ワロージャの運転するクルマに揺られて、ロシアのガタガタ道を進み、街を離れた。

イリーナの愛猫クリス

<つづく>

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