シベリア鉄道で移動中に風邪をひいた。
排気ガスにまみれた空気を掻き分けて、姿をあらわした浦塩本願寺跡のくすんだ光景――それ以外の記憶がほとんどない。
そういえば、空港のチェックインで並ぶ列にて、サハリンから来た女の子と知り合った。
日本語教師として住んでいる、サハリンに来ることがあったら連絡してねと名刺をもらった。私はその名刺も大事に持ち続け、サハリンについて調べてもみたが、いまだかの地を踏めていない。
ところでこの先の人生で海外旅行をすることが、ふたたびあるだろうか? と自問する。
というのも、先般、私はシンガポールで大骨折をして散々な目に遭ったのである。その話は光文社のサイト「本がすき。」の連載にちょこっと書いたのでよかったらどうぞ。とにかく海外で「何かあったら」とてもとてもたいへんなのだということを、まさに骨身で味わった。平成時代の私は頻繁に海外を訪れ、そのたび無事帰国できていたことは、まことに奇跡である。
初めてのウラジオストクに話を戻すと、前回書いたように私はウラジオストク訪問を楽しみにしていたが、風邪をひいてしまった。
「ウラジオストクとはご縁がないのだろうか・・・」
ところが思いがけぬ方向からご縁がやってきた。ロシア極東連邦大学・函館校さんとの出会い、である。きっかけをつくってくださったのは、先に登場した北海道新聞の相原秀起記者だ(第33回「関東軍の終焉とマガダンへ」)。
ロシアには「マースレニッツァ」という、春を呼ぶお祭りがある。
冬を見送り、春を迎える――ためのロシア正教の行事で、「冬」に見立てられた2メートル近くある藁人形に火をつけ、それをみんなで追い立て(「冬」をやっつける)、歌をうたったり、「春」の太陽をかたどったブリヌイと呼ばれるパンケーキを食べたりする。
そのマースレニッツァを、ロシア極東連邦大学・函館校のみなさんが毎年おこなっているというので、それを見に、相原さんが私を連れて行ってくださった。
このときはお祭りに参加しただけだったのだが、その後も函館校さんとの交流は続き、講演会にも呼んでいただき、そしてとうとう、函館校のみなさんと旅行まですることになった。
前回、ウラジオストクと長崎の話を書いたが、この函館という所も、ロシアとの縁が深い。江戸末期に日本最初のロシア領事館ができた函館とウラジオストクはいまも姉妹都市であり、その25周年記念のウラジオ訪問団が結成されたとき、そこに私も参加させていただいた。函館校の事務局の大渡涼子さん、福尾瞳さん、そして市民講座でロシア語を学んでいる方々や、日ロ親善協会の方とご一緒し、アルセーニエフの家(黒澤映画『デルス・ウザーラ』の主人公で軍人・探検家のアルセーニエフが晩年を過ごした。デルス・ウザーラについては第18回にも書いた)を見学したり、マリインスキー劇場でバレエを観たり、本場の極東連邦大学も訪問した。
ビザンチン帝国の首都であったイスタンブールが面している湾と似ていることから「金角湾」と呼ばれる湾にかかる「金角橋」、そこから見渡せる東ボスポラス海峡の先にある「ルースキー島」――極東連邦大学の本校は、その島にあった。
<つづく>
*当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。