第31回シベリア抑留②

列車が着いた現場はシベリア、モンゴル、ユーラシアの各地。
冬には寒さのひどいところで、マイナス40度はざらであった。
一日の食糧は、ラーゲリによって違ったが、ほんのわずかな黒パンと、具などないにひとしい粥と呼べない粥(ロシア語でカーシャ)だけ。すさまじいひもじさに、
「便を洗って残ったコーリャンの粒を食べた」
「路上に落ちていた馬糞を食べた」
といった証言*まである。(*栗原俊雄『シベリア抑留――未完の悲劇』岩波新書)

劣悪な状況に反抗でもしようものならそのわずかな食糧も減らされて、労働の「ノルマ」が追加された。日本語にもなっているノルマ、ロシア語からきている。
森林伐採や石炭採掘はキケンな仕事で事故や怪我が多く、鉄道建設では線路のまくら木一本につき人柱が一本立った(死体が一瞬にして凍る)といわれるほど犠牲者が出た。

過酷な労働と病んでゆく精神・・・心身の消耗は著しく、極限状態のなかで日本人のいじめ、リンチが頻発した。
イデオロギー対立による密告が横行し、仲間を売る者、帰国したいあまりにスターリン讃美に傾倒していく者、が続出。そうした精神的苦痛にも満ちた状況のなかを生きながら、人びとは働いた。

ここハバロフスクでも、アムール河を眺める絶好ポイントであるムラヴィヨフ・アムールスキー公園、市民の憩いの場となっているディナモ公園、公園だけではない、ホテルに学校、造船所、一般住宅・・・戦後の主要な建築物のほとんどが、強制労働させられた日本人の手になるものといわれている。

日本人たちの血の滲む仕事の跡が、白い氷につつまれている。
真冬のハバロフスクはそういう町だ。

商社マンだった私の父が、ソ連の木材を商っていたことは先に書いたが、彼の若かりし頃の商社には、このシベリア抑留体験者――いわゆる「シベリア帰り」の方がけっこういたらしい。彼らはラーゲリ(強制収容所)でロシア語をものにしたつわもののロシア語使いとして、商社の木材部に雇われていた。一緒にハバロフスクへ出張すると、市内の建造物を指して「この建物、オレが作ったんだー」とサラっと言っていたという。

私の父が総合商社のニチメンに入社したのが1961年。木材部に配属されソ連材(北洋材)を担当することになり、貿易人生がそこからスタートしたのだが、前にも書いたようにその頃日本は高度成長期の建設ラッシュで、木材チームは大忙しだった。人はいくらでも要るような活況だったが、なにせ商談には言葉が大事。ロシア語を話せる人材というのが、貴重だった。

昭和30年代に、「これからロシア語をやるといいよ」と、父にすすめたのは高校の先生であったという。その高校は、いまもある。東大阪市・八戸ノ里の布施高校、司馬遼太郎記念館と近い。
1956年10月に「日ソ共同宣言」というのがあって、これによって日本はソ連との戦争状態を終結させ、国交を回復した。「宣言」となっているが、当時の首相・鳩山一郎とブルガーニンが交わした、ちゃんとした「条約」である。
そうした時代の流れを読んで、先生はロシア語学習をすすめたのである。
先生って、大事だ。
父の先生・藤本先生は、専門の生物だけでなく物理、地理、歴史、民俗学にも詳しい知識人で、彼を慕っていた父は先生のすすめた道へ向かって、猛勉強をした。それまで小鳥の世話に熱中し、ろくに勉強していなかったのに。
そして大阪外国語大学(現・大阪大学)のロシア語科に合格したが、ロシア語のむずかしさに手を焼いた。なんとか卒業して会社に入ってみたら、そこには苦労したロシア語を得意とするひとたち――自分より15~20歳ほど年上の、つまり当時40歳前後、もっとも働き盛りを迎えている世代で、シベリアの強制収容所=ラーゲリから帰国を果たした人びと――つまりラーゲリ出身の先輩たちがいた・・・というわけだった。

<つづく>

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