第30回シベリア抑留①

それにしても、寒い。寒すぎる。
マイナス30度に届く体感温度。この寒さに慣れていない私たち日本人には、かなりきつい。
ところがかつてこの地で働いた、大勢の日本人がいたことを、みなさんご存知でしょうか?
戦後、当時のソ連各地に抑留され、シベリア開発にあたった――シベリア抑留者、の方々である。

1945年8月に日本が無条件降伏をしたことは、有名な話。
そのとき、満州(現在の中国東北部)、北朝鮮、樺太(サハリン)、千島列島などに駐留していた人びとの多くがソ連軍の捕虜となった――これもわりと有名な話。
しかし彼らのうちおよそ60万におよぶ日本人(敗戦まで<日本人>だった台湾や朝鮮の人を含む)が、ソ連全土の収容所に送られ、3年~長い人で10年にわたって働かされ、
60万人のうち6万近くの人が亡くなっている、しかも多くの遺骨がシベリアの土に埋まったままで、日本に帰ることができていない――ことは、広く知られていない。
奇跡的に日本に帰国された人のなかで、ご存命の方はいよいよ減って、90歳を超えている。私はこの生き残りの方々と、これまで折々交流をしてきた。そのエピソードや証言についても今後書いていきたいと思っているが、「ファーロード」の主役はあくまでクロテンなので、ここではいわゆるシベリア抑留の、ほんのさわりにだけ触れる。真冬のハバロフスクの美しさに触れて、シベリア抑留に触れないわけにはいかないのである。

満州などにいた彼らは、スターリン(1879~1953)がソ連全土につくった強制収容所=ラーゲリに連れていかれた。スターリンは外国人を使う前から、数百万を超える自国の農民や市民(無実の)に言いがかりをつけてラーゲリに送っており、シベリアやロシア北部の未開発地域の鉄道、ダム、鉱山や運河の建設にあたらせた。
自国民にさえそのような強制労働を強いていたスターリンにとって、外国人の捕虜は恰好の労働力だったろう。
こういうとスターリンだけが悪者、のようであるが日本だって東南アジアで似たようなことをやっている。イギリス兵やオーストラリア兵、朝鮮人などの捕虜を各地で働かせていたし、帝政ロシアが崩壊してソ連の苦しかった時期に日本が干渉戦争を挑んだ背景もある(シベリア出兵 1918~25)ので、日本だけが被害者という話にはしたくないのだが、真冬のこの町の美しさの前に、黙っておれない。

兵士たち(一部、民間人も)は「トーキョー・ダモイ」(日本に帰れるよ)と言われて、列車にいざなわれた。貨物・家畜運搬車両にぎゅうぎゅう詰め込まれ、排便用の穴が床に開けられただけの、つまり尿便は垂れ流しで異臭と雑菌にまみれた真っ暗闇のなかに、ひと月ほど閉じ込められる。
鉄道で移動させられていたのだが、外が見えないので何が起こったのかわからない。いくら待っても終わらない暗闇に、錯乱状態になる者も出ただろう。まともな精神状態で、いられるわけがない。少なくとも、「日本へ帰る船が出る港へ向かっている」などという期待は裏切られたのだと、誰もが途中で気づいたはずである。

列車が着いた場所はシベリア・モンゴル・ユーラシアの各地。冬には寒さのひどいところで、マイナス30度になるなど、ざらであった。
たとえば、バイカル湖のそばのイルクーツク。その地へ私は行ったことがあるが、夏の終わり8月中旬からもう冷えてくる。敗戦時の日本は暑い夏だったが、抑留者が連れて行かれたシベリアはすでに、寒さがこたえる天候になっており、そのまま最初の冬を、迎えたのである。

<つづく>

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