氷屋さんのほかに、高校時代のアルバイトでもうひとつ思い出深い一件がある。
吹奏楽部でホルンを吹いていたナナちゃんから、「劇団の仕事しない?」と誘われた。
ナナちゃんはすでにそのバイトを何度かやっており、リハーサルと本番で一日5000円もらえるという。日ごろパン屋さんで、自給420円で働いていた私に、それはとても大人の仕事に思えた。さらにリハだの本番だの、なんだか華やかそうではないか。
私は「やるやる」とナナちゃんにオッケーの返事をし、吹奏楽部の練習のない週末にバイトの予約を入れた。当時、というかいまも吹奏楽部の子どもたちはみんなだと思うのだが、休みは少ない。年がら年じゅう練習している。吹いてばかりいるのでいつも唇を腫らし、下唇のウラ側に歯型を付けていた。
さて、その劇団の根城は、埼玉の街の狭い倉庫のような場所にあった。天井が低く、段ボールがそこいらじゅうにあふれ、粗末な衣装や着ぐるみが箱から死体のようにはみ出していた。役者のみなさんは全身ゴム製の衣装を身につけるため、汗をかいて肌がムレるらしい。衣装箱はシッカロール系のパウダーが埃と混ざって、異臭を放っていた。
劇団とは、デパートやスーパーの屋上遊園地でウルトラマンショーのようなことをするチームだったのだ。平成のあいだに絶滅したと思われる屋上遊園地は、私のような昭和の子にとっては懐かしい場所である。ペットになる小動物や鯉や金魚もそこで売っていた。
行ったその日に私にも役が与えられ、翌日がもう本番だった。
舞台はスーパーの一角の広場で、お客さんも親子づれなど数人いた。私にはカエルの王様の<かぶりもの>と手袋と長靴が支給された。セリフはひとことくらいあったかもしれないが、憶えていない。監督には「とにかく身振りを大きく!」と指導されていた。
本番。私は大きな衣装をまとい、巨大なカエルの縫いぐるみのアタマをかぶり、さらに巨人のような長靴を履いて、舞台ソデで出番を待っていた。
吹奏楽部でいつも演奏をしているため、人前に出ることは慣れていた。それなのに私は大失敗をしてしまう。
ステージにおどり出た瞬間気づいたのだが、その時にはもう遅かった。手袋を着用するのを忘れてしまったのだ。ようするにアタマと身体と足は大きなカエルの王様であるのに、手だけが生身の人間――高校生の女の子の小さな手で、ステージに上がったということだ。
顔の前に手を持っていくしぐさがあったのだが、あのとき会場にいた親子たちは気づいただろう。手が、カオの100分の一くらいの大きさなのだから。
どんなに身振りを大きくしても、素手のままでは、どうにもならなかった。
なんというミスをしてしまったのだろう・・・。
「手袋をはめる」という、動作ひとつを欠かしただけで、役へのダメージははかりしれなかった。「手袋をはめる」はかんたんなことだった。手袋をはめて舞台に上がれてさえいれば、終演後みんなと気持ちよくお疲れ様ができたというのに。
私はがっくり肩を落として家に帰った。
そして二度とその劇団には戻らなかった。
<つづく>
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