2009年3月に会社をやめた。
そのあと私は病を得て、しばらくのあいだ闘病生活をした。
退社で通勤がなくなり、独身なので実家に帰り、20年ぶりに両親と暮らすことになった。
年をとり、体の不調はあるにはあるが、仲良く暮らしていた父と母、彼らの住む郊外の一軒家にもぐりこんだ。ひとりっ子なので、部屋もありがたいことに、そのままあった。
そこで私は手術の後遺症を抱えていた時期も穏やかに過ごすことができ、精神的にも肉体的にも、日に日に回復していった。抜けていた毛も生えた。とはいえ本格的に社会復帰することもできず、ときどき注文をもらった原稿を書いたりしながら、おとなしくしていた。それまで離れていた分、両親といろんな話をした。一緒に食事をして、一緒にテレビをみた。食事が終わると三人分の洗い物をしながら、タワシの<毛の力>はすごいなと、いつも感心した。どんな洗剤よりも、いい仕事をする。
大学卒業後の二十代から会社をやめる四十過ぎまでずっと外で働いてきた私には、いつも<ボス>がいた。会社の社長をはじめ、歳上の、立派な男の人たちである。
ボスというのは一様に我が強く、若輩が偉そうにものを言うことを嫌がった。
会社をやめたので、もう私にボスはいない。
「夫がボス」という専業主婦の友人もいるが、私は結婚をしていないし「ボス的彼氏」もいない。ところが、私にはもういないと思っていたボスが、家にいた。
実家に戻った私は新しいボス――というか元々のボス、すなわち父のもと、再始動へ向けての準備にはげんだ。近くに流れる利根川の土手を散歩しながら、世界情勢についての講義を受けた。私が会社員としてモーレツに働いていた時期の、世の中の動きもおさらいした。実家での生活は、学校に通っているようなものだった。
父は一日のほとんどの時間を家の中で過ごしていたが、そのうち一時間ほどは、部屋を歩き回る。彼が部屋を歩き回るのは、血糖値コントロールのためだった。1型糖尿病なので、毎食前にインシュリンを自分で注射している。
天気のよい日は散歩に出かけ、雨や寒い日は家のなかをシロクマのように歩き回った。背は180センチ、体重も80キロあった父はかつてその巨体で、同じくシロクマのようなロシア人と、わたりあっていた。
戦時の空襲で、日本は丸焦げになった。
町という町は全て焼かれて、ほとんどの人びとが棲み処を失った。
戦後復興のための建築、産業化に燃料と資材は必需となった。
都市で急速に進んだ工業化は、爆発的な人口増加を生む。
農村から都市へ、一気に流れこんだ人びとの暮らしを支えるため、住宅はますます必要となった。日本各地に杉などを植林しても、経済産業の成長拡大に追いつかない。国内の木が育つのを待っていられないので、輸入に頼る。
もちろんそういうことになっていたのは日本だけではない。
どの国も、復興に必死だった。
第二次世界大戦後、世界中の森から木が伐採された。
世界各地でラワン材など、住宅その他の建設用に重宝されたアジアの広葉樹も、ロシアの針葉樹も、どんどん切られ、資材となった。
そうした時代に私の父は、世界中かけめぐって木材をかき集めていた一人だった。
学生時代にロシア語を専攻していた父は、1961年に総合商社のニチメン(現・双日)に入社、木材部の北洋材(ロシア材)科に配属された。そこからソ連が崩壊する1992年あたりまで三十年にわたり、日ロ(当時日ソ)貿易にたずさわっていた。
北洋材というのは、主にシベリアの針葉樹で、ラワンなどの南洋材に比べると日本で生息する樹木により近く、日本の風土に合っているとされ、人気があった。大忙しで父がソ連と日本を頻繁に行き来していたときに生まれた娘=私 、それで名前がロシア語だ。ミール=「世界・平和」から来ている。
自分の名前がロシア語であることを、私はあまり意識してこなかった。
意味を訊かれれば、父が仕事でロシア語を使いロシアと縁が深かったのだと答えていたが、「へえー」と言われて、たいてい話は終わっていた。
大人になって、二十年ぶりに親元に戻った私は、自分は「ミール」の「ミルコ」だったのだなあと、あらためて思った。
<つづく>
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