第18回「つぎのひと、くる」

都心暮らしをやめてだいぶたったいまとなっては、「上京」はひとつのイベントである。
ある日、ランチミーティングがあって、六本木一丁目駅で下車した。
約束の時間には少々早く、かといってお茶を飲むほどの時間はない。
六本木一丁目駅直結のビルには、かつて私が通っていたスポーツクラブがあり、そこに近づいてみた。シックなエントランスの前に出ると、ゆったりしたロビーがみえた。
自分があの素敵な場所に出入りしていたとは、いまとなっては信じがたい。
ひっそりと覗くのがせいいっぱいである。きっとエグゼクティブのようなカッコイイ人たちが、きょうもあそこで泳いだり走ったりオモシを担いだりしているのだ。
もう私には縁のない出来事である。
というか、そこに入りたいとも思わない。
すでに東京がいいとも思っていない。
この日本という活断層に生きているのだ、いつどこへでも動けるように、最小限の荷物と最低限の体力と、覚悟をもっていたいもの、そんなことばかり考えている。
だから不動産にも贅沢品にもこだわりはない。
のぞむものは自分の脳と感情を豊かにする、魂をみがく経験。そのためにあちこちへ動ける体。どこででも生きていける力、をつけたい。会社にいた頃にはそんなこと考えなかった。

そうは言っても、私が都会に住んでいたのは20年ほどだ。いまはなんの違和感もなく、育った土地に戻っている。

子供の頃、チャボを飼っていた。茶色の羽はなめらか、抱くと体はいつもあったかで、やわらかく、か弱く優しいチャボは、ニワトリよりひとまわり小さいその体で、産むタマゴもニワトリよりひとまわり小さい。それを横取りして、わが家の朝ごはんにいただくこともあった。

チャボを抱く小学生のミルコと父

チャボだけでなく、ウチには他にも鳥がいた。キンケイという孔雀のような大きな鳥を、つがいで飼っていた。父が付き合いのあった材木屋さんから、いただいたのだった。

父はその材木屋さんから犬も、もらっていた。

犬は白かったので「しろべえ」と名付けられ、父の休日の散歩には必ずお供していた。

キンケイ、チャボ、犬のほかに、たくさんの鯉やザリガニ・・・・・・いろんな生き物をウチの庭で飼っていた。父は子供の頃から鳥や動物が好きで、少年時代には大きな鳥小屋でジュウシマツやカナリヤ、文鳥など飼い、雛をかえすことに熱中。近所の小鳥屋さんに出入りし、店主のおじさんにかわいがられて、小鳥の世話ばかりしていたらしい。

日本では約7億羽のトリが、一年間に食べられているという記事を読んだことがある。
牛や豚も入れると、私たちは日々いったいどれだけ多くの動物たちを、死に向かわせているのだろう。考えるとぞっとする。そんなに多くの肉が、はたして私たちに必要なのだろうか?
人間以外の動物たちは、自分が生きるのに必要な分しか、他の生き物を殺さない。
人間はおそらく自分の分を相当にオーバーして動物たちを殺している。

1人分のお肉を作るのに、6人分の穀物が要ると言われている。

穀物は年間生産量の約6割が家畜の餌に。世界で10億近い人が飢餓に苦しんでいるというのに、牛豚さんたちは、おなかいっぱい。おなかいっぱいで彼らが幸せかといえば、そうではない。不本意な環境で、本来からだに入れないものを、むりに与えられている。
もちろん大切に育てられている家畜たちも、なかにはいる。
しかし大量生産システムに組み込まれた飼育業者には少なからず、スピードも求められて、「食べることは生き物の命をいただくこと」などとじっくりやっているひまはないだろう。
機械的に殺されていく動物たち。その死骸で、食肉センターは毎日いっぱいだ。儲からない部位や内臓はすべて廃棄されるという。

デルス・ウザーラ

ドキュメント映画『タイガからのメッセージ』(制作:タイガの森フォーラム)のなかで、アカシカを獲った先住民が、まずアカシカの腹を割いて内臓を取り出す場面があった。タイガの先住民は狩りをするが、自分たちの食べない部分は他の生き物のために置いていくのである。持ち出すのは自分の家族分とせいぜい友人の分だけ、あとは森へ返す。
黒澤明監督によって映画化された、『デルス・ウザーラ』(1975) では、密林に暮らす先住民のデルスが、アルセーニエフ率いる探検隊たちを叱る場面がある。彼らが狩猟した動物の死体を捨てたからだ。
「ただ生きる」だけのために動物を獲る。毛皮や肉を人間がいただいたら、使わなかった部位は他の生き物のために置いていく。そこでデルスはこう言うのである。
「つぎのひと、くる。」と。

「つぎのひと、くる。」のひと言には、大事なことがぜんぶ入っている。自分に必要な分だけを取る。あとは森に置いていく。それを別の誰か(動物)が食べにくる。誰かが残したものを取りに、また別の、誰か(鳥や虫)が、くる。彼らの残したものが土や水に還り、植物や木を育てる。そうした命の循環は「つぎのひと、くる。」だし、「トイレはきれいに使いましょう」というのも「つぎのひと、くる。」だし、「子供たちの未来のために」というのも「つぎのひと、くる。」だと言える。
「ああ、そういえば自分だけじゃないよな・・・『つぎのひと、くる』んだった」

命はぜんぶつながっている。「助け合い」や「支え合い」「絆が大切」って、人間同士だけの話ではないだろうから。

ところで、わが家ではチャボを食べることも看取ることも、最終的になかった。

チャボとキンケイは、父が通う近くのゴルフ練習場・日暮ゴルフセンターに引き取ってもらったのである。

「鳥の鳴き声がうるさい」と、近所から匿名の苦情がウチに来たからだ。

日暮さんは、大きな鳥小屋をクラブハウスに建てて、チャボとキンケイを歓迎してくれた。

練習に来たゴルファーたちは、「ここには変わった鳥がいるなあ・・・」と思っただろう。

チャボとキンケイを最期まで大切にしてくれた日暮ゴルフセンターは、いまも千葉県柏市にある。

<つづく>

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