第17回タイガでデート

夢を見ないのは、ほんとうに久しぶりだった。
夢を見ずに目が醒めて、自分のしたことが、信じられないほどの驚きをもってたちのぼってくる。
私はビキン川のほとりの、ほぼ垂直に切り立った山に登った。
とうとうクロテンの森に入ったのである。

ビキン川をわたる

ビキン川を下流へ向かい、舟を走らせた。

ウデへ語で「嬉しい」の意をもつ川、「嬉しい川= ビキン川」の名にふさわしい、この日は私にとって「嬉しい日」となった。

川の流れは速く、風を真向かいから全身に受けて、私は進んだ。
進行方向・右の遠くに中国、左の遠くに日本、そしてここは、その二国に挟まれたロシア極東――沿海地方・プリモーリエの、ビキン川中上流域だ。

東京・神奈川・千葉・埼玉を合わせたくらいの広さをもつタイガ、ロシアがほこる世界一の原生林のなか、S字状に流れる川をゆく。

川のほとりで休憩中

小さい山だが激しい傾斜をもつ山に着いた。川辺に舟を寄せる。
針葉樹(主に朝鮮五葉松)と広葉樹(主にモンゴリナラや満州胡桃) の両方を併せ持つ豊かな森。

黄みどり色の束にところどころ刺す深みどり色が朝鮮五葉松で、木のてっぺんが二つの穂に割れている。この森が橙色に染まる頃、マツの実は食べごろとなり、実を求めてアカシカやリスが集まり、リスを求めてクロテンが集まる。

森への案内役を引き受けてくれたのは、この道30年のベテラン猟師、アレクセイ・ゲオンカ。ジェームス・ディーン似の38歳・独身。一年の半分は森にいるという彼は自転車が趣味で、村にいる日はブレーキのない自転車に乗って、あてもなく村をぐるぐる回っている。パトロールのようでパトロールでない。ただ走っているだけのその姿に「理由なき反抗」ならぬ「理由なき運行」というタイトルをつけてみる。だから村をぶらぶら歩いていると、彼にバッタリ会う。アレクセイに会いたければ、道端に出ていればいい。ぼんやり立っているだけで、必ず会える。

クロテンの家を目指して、けもの道をゆく。
無数の虫が、視界を遮ろうとする。森に入っていい人物かどうか、試されている。尋問するかのように私にまとわりつく。

森を散策中

アレクセイは道なき道を、野生動物のように進んだ。
折り重なる落ち葉を踏みしめ、つぎつぎ目の前に立ちはだかる枝葉を掻き分け、シダに顔を叩(はた)かれながら、私もアレクセイに続いた。

トラがのっそりとそばから現れてもおかしくないジャングルだ。
アレクセイのタンクトップにジャージーパンツという軽装に対して、私は幾重もの重ね着の上にカーキ色の防虫服をまとい、着ぶくれして汗だくになっていた。

そういえばウチを出る時、防虫服で膨らんだ私の姿を見て、ホストマザーのニーナが初めて笑ってくれた。彼女のあんな楽しそうな顔を見たことがなかったので、私はほんとうに嬉しくなって、それだけでも着ぶくれした甲斐があったのだが、どんくさい私はその恰好で、何度も山から転げ落ちそうになる。そのたびアレクセイに手を引っぱられたり、抱きかかえられたりする。

あれ? このシチュエーションってデートのようだ。

じっさい、村の夫婦や恋人たちは二人で山に入り、猟をするという。

一週間くらい狩猟小屋に泊まり込んでアカシカやイノシシをとり、その場で解体して、内臓は森に残し、肉は村に持ち帰る。
私は森に住むことも獲物をさばくこともできないので、アレクセイに恋をしないようにしなければ。にしても、自分自身で造った舟で川を往き、藪蚊や、刺されると高熱の出るかもしれないダニだらけの森にハダカ同然の格好で入り、雨の日でも火をおこすことができ、自分で釣った魚をエサに野生動物をとらえ、自分でとった獲物で自分と家族を養う・・・・・・なんとカッコイイ、頼もしい男性なんだろう。

アレクセイだけでなく、この村の男たちはみな逞しい。家も自分で建てる。冬はマイナス30度、夏はプラス30度の気温の中、家族のために毎日毎日、井戸から水を汲み上げ、丸太を切り、まきを割り、風呂を沸かす。そんな男たちがわらわらいる隣国と、日本は戦争など二度とするもんじゃない。

なんとか頂上に辿り着いた。
山を登ったのは始めてだった。
人工骨の入っている私の足首はよく曲がらないので、急な坂道には日頃から難儀しているのだが、こういう時に出るパワーというのはじつにふしぎだ。
高い頂きから見下ろすビキン川は鈍色に光り、ついさっきまであの川を滑るようにして進んだことが信じられないほど、水は止まって見えた。

クロテンの住む穴

クロテンの家は、森の奥深くの、太い木の幹にあった。木の内側が腐っているのか、中が空洞になっていて、その穴にクロテンは住まっているという。
ざんねんながら、クロテンは不在だった。
けっきょく、タイガまで来てもクロテンに会うことは叶わなかった。
けれども、ここに向かって「出発する」ことが私には大事だったのだと、わかった。

<つづく>

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