「江戸時代の記録を見ると、日本はかなりクロテンを輸出しています。本州にクロテンはいませんが、北海道と樺太にいますからね、アイヌが獲ってきたクロテンを集めてきて、それをサンタン人に売っていた。江戸幕府がかかわったクロテンは、アムールから中国へと流れたんです。アムール川沿いに、絹の道と毛皮の道(シルクロードとファーロード)がはしっていましたよね、中国から絹がどんどん流れてきて、で日本からはクロテンが流れていくと。小さいけれど、これもファーロードの重要な流れでした。
当時のクロテンの流れっていうのは、17世紀まではかなり中国に集まっていたんですが、じつをいうとロシアもですね、18世紀になると自分のほう(西側・ヨーロッパ)よりも中国でのほうが売れるぞということになったんですね。ですから東シベリアでとれたクロテンはイルクーツクに集められて、そこからキャフタを通じて北京へ売られました」(佐々木史郎氏)。
キャフタ(現・ロシア・ブリヤート共和国)というのはロシアと清の貿易窓口になっていた都市で、当時毛皮の大集積場があり、貿易の中心地のひとつだった。キャフタについては、<第二の旅・イルクーツク編>にて、詳述しようと思う。
クロテンたちはその ”死”でもって、中国で「清朝」の隆盛を、ロシアで「ロマノフ朝」の隆盛を、そして鎖国中の「江戸幕府」をも、支えていた。
サンタン交易は、清朝と江戸幕府の衰退とともに終焉を迎える。役人の不正や商人たちの違法取引が横行したなどもあるが、いちばんの理由は、急激に勢力を強めてきたロシアの進出である。
かつてピョートル一世の時代に、ネルチンスク条約(1689年)で定めた国境をしばらく守っていたロシアであったが、その後ますます毛皮ビジネスに精を出し、カムチャッカ半島からベーリング海へ、そしてアメリカに進出してアラスカ、アリューシャン列島を領有、カムチャッカから南の千島列島(クリル)に迫るなど日本にも接近していた。すべて毛皮のためである。
ロシア・アメリカ社会史・森永貴子氏のご著書より、引用させていただくと、
<18世紀にはシベリアの毛皮獣が枯渇し始め、ロシア人毛皮業者たちは新しい毛皮資源を求めるようになった。ちょうどその頃、シベリア・極東の学術調査である大北方探検事業のため派遣された第2次ベーリング探検隊(1733–43)が帰還し、カムチャッカ半島沿岸の「ラッコ」情報がもたらされた。
ラッコはビーバーによく似た動物で、初めてラッコを見たロシア人はこれを「カムチャッカ・ビーバー」と呼んだ。
ビーバー毛皮は17−18世紀にヨーロッパで高級毛皮として大流行し、帽子などのお洒落な高級衣料に使われた。しかしビーバーが北米大陸など陸上の動物であるのに対し、ラッコは北太平洋沿岸にしか生息しない海の動物だった。最初ロシア人はそれを知らずにラッコ猟を開始し、黒い光沢と滑らかな毛並みのラッコ毛皮が毛皮業者の新たなターゲットとなった。
1740年代以降、ロシア人毛皮業者の共同出資船がラッコやオットセイを求めてカムチャッカ半島、アリューシャン列島、アラスカへ派遣され、何年も宿営して毛皮を獲り、船がオホーツク港に戻ると出資額に応じて出資者に毛皮を配分する仕組みが出来上がった。こうした毛皮はオホーツク港のほか、レナ川沿いのヤクーツク、キャフタに近い都市イルクーツクなどの集散地に運ばれた。>(『北太平洋世界とアラスカ毛皮交易』ユーラシアブックレット193より)
こうして新たな人気者・ラッコが登場、オットセイまで標的に。しかしクロテン受難の時代はまだ終わらない。
1799年には「露米会社」というのを国策で設立、アメリカや極東の毛皮を独占しようとした。
露米会社はコストがかかりすぎてうまくいかなかったが、1840年代に入ってロシアは再び清朝をおびやかす。強大な武力と、国境付近の住民調査などの既成事実を次々つくって、とうとうアムール極東地域一帯を手に入れた。
「クロテンはとられすぎで、ロシア革命の直前ぐらいにはアムール川流域や沿海地方ではもう絶滅状態になってしまいます」(佐々木氏)
文明人の飽くなき欲望のために追い回され、殺され続けるクロテン。
終わりの見えないクロテン猟に訪れる転機は、ロシア革命後まで待たねばならなかった。
繁殖政策がすすめられた。クロテンの生息地域は禁猟区となり、禁猟区で生け捕りにしたクロテンを繁殖のための特区へ連れていき、そこで放すというものだった。
結果、ソ連時代にはクロテンの”養殖”がすすんだ。
狩猟専門のコルホーズ(ソ連時代の集団農場。半官半民の組合のようなもの)も出現した。
森本良男氏の『シベリア』(築地書館)によると、
<シベリアの”柔らかい金”はよみがえった。いまでは毎年コルホーズやソフホーズ、約400万人の猟師や約150万人のアマチュア狩猟家が提供する400万枚以上の毛皮が、レニングラードの毛皮宮殿で開かれる国際毛皮競売会を通じて、世界中へ売り出されている>
この本の初版は1962年(昭和37年)。保護されるようにはなったが、とられることには変わりなかったクロテン。自分を見ると目の色を変える文明人たちから彼らが逃れるのには、この頃からさらに20年ほどかかる。
<つづく>
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