第4回 毛のないクロテン

毛を剥ぎ取られた状態のクロテンを見たときのショックは、忘れられない。

<毛のない>クロテンは、細く、小さな塊となって、真っ白な雪の上に横たわっていた。

紅い肉が、痛々しい。

 

毛のないクロテンには、もう誰も用がない。

人間はフサフサの毛皮だけが欲しいので、毛を剥ぎ取ったらもう<用済み>なのだった。

<用済み>となったクロテンは、打ち捨てられるしかない。

クロテンはクロテンとして生きていただけなのに。

ただ搾取をされて、死に至る。

現在のヨーロッパ、ロシア、モンゴル、中国・・・それら冬に寒くなる地域を中心に、無数のクロテンが、その犠牲となった。

ロシア語で数字の40を表わす「ソーラクсорок」という言葉は、「ソーボリсоболь」(クロテン)から来ているという話を聞いたことがある。

クロテン毛皮は、40匹を一つの単位として、売買がなされていたというのだ。

毛皮を買いたい人が毛皮商人のところへやってきて・・・あるいは、毛皮商人がシベリア先住民から毛皮を手に入れるときなのかもしれないが、とにかく誰かが市場へやってきて、

「クロテンください」

「1ソーボリでいいかい?」

「はい、よろしく。本日の取引価格はいくら?」

といった会話がなされ、40匹分の毛皮が手に入る。

それに見合う時価で、物々交換なのか、1ソーボリという「通貨」なのはわからない(どなたか専門の研究者の方がいらっしゃいましたら、教えてください)が、おそらく40匹で、コート一着分くらいなのだろう。

一着の上着を作るのに、生きた獣を40匹も殺さねばならない。

 

人間が増えれば、殺される動物も増える。

人間だけが生き続け、ほかの動物は減り続ける。

そんなことを自然の神様が、お許しになるわけがない。

 

会社員時代、毎日仕事に出かけ、がんばっていた。

しかし私は病気になってしまった(この件につきましては拙著『毛のない生活』をご参照ください)。

病気になるまで、人間以外の生き物について、考えることがなかった。

森とも海とも付き合わずに過ごしていた。

地球に棲む者全員が、かつての私のような町暮らしの人ばかりになってしまっては、地球はほろびてしまう。

森や海と付き合って暮らす人々の減少とともに、いま地球も病気にかかりつつある。

「生き物」である地球は、人間が次々つくりだす「代謝しないもの」の山に潰されかけている。

 

500年にわたったクロテン受難の歴史の幕引きはおそらく、1980年代頃と言っていいだろう。

化学繊維の大量生産、そして動物愛護運動の盛り上がりによって、である。

 

ソ連が崩壊したと、西側諸国にも扉が開かれて、90年代にそれまで閉ざされていたロシアへ、研究者やNGOの活動家がぞくぞくとやってきた。

70年代の終わりから80年代にかけて「STOP環境破壊」や「動物愛護」などの運動が日本でも高まり、その洗礼を思春期に受けた野口さんは、東京の大学の文学部に入ったが、「文学をやっていても動物たちを救えない」と思い立ち、卒業後に環境保護の国際NGOの世界に飛び込んだ。

 

ここに書いた「野口さん」という人が、<極東のアマゾン・ビギン>のタイガへ私が行った際にアテンドしてくれた人で、彼の話を耳にした当初から、私の「クロテンに会う旅」に欠かせない人物だと、私はにらんでいた。

というのも、90年代にいろんな団体が、森と動物たちの保全活動に入ったが、2000年ごろから流れが変わってしまった、企業からの資金援助がなくなり、活動は収束していき、みんな活動を止めてしまった、いまも変わらず活動を続けているのは野口さんだけ、と聞いたからだった。

私がクロテンの天命を受けたのが、退社・闘病・震災後なので、2000年から10年以上経っている。

儲からなくても続けている人、と私は仕事がしたかった。

<ミルコのファーロード>のコンセプトである、「私がやらなくて誰がやる」は、お金が減ったくらいではやめられない。

「私がやらなくて誰がやる」

きっと彼もそう思ってやっている。そう信じて、私は彼に近づいた。

 

私は私の意向――なぜ「クロテンに会う旅」なのか、を駆け足で彼に説明した。

自分が病気になって考えた動物と人間の関係について、そして実家に戻って思い出した<元ソ連・ロシア>という国について、思うことを一気に語った。

すると彼は、自分の活動の中心地であるロシア極東・ビキン川流域は、まさに「クロテンに会う旅」の場所になる、前向きに協力する、そしてタイガにいるアムールトラや先住民についてたくさん話してくれたあと、「山口さん、ぜひタイガとその森の民<ウデヘ>について、書いてください」と言った。

その目は笑っていなかった。

 

その日からまもなく、私は野口さんと成田空港にいた。

私たちは、黄みどり色のエスセブン=S7(シベリア航空)に搭乗し、ハバロフスクへ向かった。

 

<つづく>

*太字部分は『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』(小学館)より抜粋(参考文献は、書籍の巻末に掲載しています)
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