ロシアでコサックのエルマーク(第2回「ロシアとクロテン」参照)がシベリア遠征をしていた頃、中国がどうしていたかというと、時代は「明」の後期、国は傾き始めていた。
永楽帝の時代には綿織物の生産など産業が発達し、江南・蘇州が流通経済の中心地となって繁栄を誇っていたものの、永楽帝が1424年に亡くなって四半世紀が過ぎた頃には、陸では北方からモンゴル軍が、そして海では東南から「倭寇」とよばれる海賊的貿易商人が、頻繁に攻めてきた。
時折日本も豊臣秀吉が朝鮮出兵するなど暴れまわっており、明はそれに対抗する軍事費などもかさんで財政難に陥っていった。
そんななか、300年近く続いた大国「明」をとうとう倒すのが、ヌルハチ率いるヌルハチ軍――中国東北部の「女真」である。
「女真」(女直)とは一つの民族ではなく、現在の中国東北地方からアムール地方・沿海地方一帯に散居していたツングース系の言語を話す人びとの総称である。
この「女真」の人びとが元となって18~19世紀に栄えたのが「サンタン貿易」だ。
「女真」(女直)または「満洲」と呼ばれた彼らは、活発に毛皮交易をおこなっていた。
その祖先はちょうどいまのロシア極東・・・ハバロフスク地方・沿海地方のあたりで、7世紀ごろ「渤海」という国を作っていた。
「渤海」は日本とも交易していたので、日本にもロシア極東地域のクロテン毛皮が当時から入ってきていたと思われる。
彼らは毛皮と絹で得た利益を経済基盤に、12世紀には「金」王朝を、そして17世紀には一大王朝「清」を築く。
クロテンはヨーロッパだけでなく中国北部や朝鮮でも人気が高かった。
「女真」たちは毛皮の供給地と消費地の中間を拠点にしており、その両方をおさえて、毛皮と絹や鉄製品を取り引きし、その交易によって多大な恩恵を受けた。
クロテンの産地から遠かったヨーロッパロシア人――いや初めはそばにクロテンがいたのだが早々に獲り尽くしてしまい、1480年、「タタールのくびき」とよばれるタタール人による抑圧から解放されるとともにぐんぐんとシベリアへ向かい、山をゆき、川を渡り、路を拓き、販路を整備し、商人やハンターやコサックを総動員して・・・という大ごとになったのであるが――にひきかえ「女真」たちは、もともとこの辺り(現在のロシア東部)にいて、毛皮交易に恵まれた環境で勢力を伸ばした。つまりクロテンを「獲る」ことにも「売る」ことにも長けていた。彼らこそ、いまもロシア極東のタイガで狩猟採集生活をいとなむ<森の民・ウデヘ>(第3回「罠にかかったクロテン」参照)のルーツと言われている。
15世紀半ばからぐんぐん高まった、中国や朝鮮宮廷でのクロテン人気。
当時この地域の人びとに人気だったクロテン・ファッションは、帽子の端や先端の飾り、衣の袖口や裾を毛皮で飾る、というワンポイント装飾だった。ヨーロッパ人の好んだコート一枚に何十匹も・・・でない“クロテンづかい”なのに、クロテンがたくさん取り引きされ、国家予算を担うほどの利益をもたらしたということは、当時かなり流行のおしゃれだったのだろう。
こうして「女真」は富をたくわえ、経済力、政治力、軍事力を身につけていった。
大量のクロテンが、兵力増強の財源として消費されていくのである。
ヌルハチ一派とその後継者が築いた清朝は、17世紀の100年間に東北地方で支配体制を強めていった。
毛皮を経済基盤とした「女真」たちの勢力であったため、彼らはその仕事をますます極めて、18世紀にはアムール・樺太地域の統治を確立させる。
樺太でもクロテンをはじめキツネやカワウソなど毛皮獣がたくさん獲れた。
清朝が支配していたアムール・樺太地域で獲れたクロテンは、中央で絹と交換された。
絹は日本に高く売れた。日本はいいお客さんだった。
その一方で、日本の北の地からもエゾテン、クロテンが輸出されていた(蝦夷地=北海道+樺太+千島列島は、幕府と松前藩による経営で毛皮産地となっていた)・・・というふうにグルグルと、アムール地域、いまの中国東北地方、そして樺太を含む蝦夷地と日本という一帯に展開された、ここはミニ版の「シルクロード」であり「ファーロード」でもあったのだった。
<つづく>
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