1598年にフョードルが亡くなって、9世紀から続いてきたリューリク朝が終了し、ボリス・ゴドノフが実権を握ったことを前回書いた。
王朝の断絶と、皇統の血筋でない者が皇位を継承したことで、民の動揺は拡がっていた。
イワン雷帝の後継者として政策通だったといわれるボリスがやったことといえば、主に農民政策である。農民のための農民政策というよりは士族のための農民政策・・・ようは「農奴制」の強化だ。
土地に縛られ、過酷な労働を強いられた農民の逃亡は、年々増加していた。
逃亡するのはたいてい貧乏地主のところにいる農奴たちで、貧しい主人のもとを去った彼らを受け入れたのは、裕福な地主(貴族)だった。労働力を確保したい大地主にとって逃亡農民はウェルカムだったのだ。
逃亡農民をかくまい、自分たちのものにしたがる大地主と、中小地主たちのあいだで、農民の取り合いのようになった。そこで戸籍制度を導入したり、逃亡農民を探し出して逮捕したりといったボリスの政策は不評ではなかっただろう。にもかかわらず、農民の逃亡はちっともやまず、「債務奴僕制」(カバーリヌィ・ホロープストヴォ)なんていう制度も導入された。債務を負った農民が、それを返す代わりに農奴として、債権者のもとで働く。「カバラ」という特別な契約書が発行された。
あれこれやっても政府の打ちだす政策は農民にも士族・貴族にも評判がわるい。「お前、いったい誰の味方なんだよ?」と、どっちつかずとおもわれたのか、みんなの政府への不満はふくれあがり、これがスムータ(動乱)の源と言われている。
せっかくリューリク朝が終わったというのに復権できずにいた貴族たちは不満たらたら、農民たちも新たに導入された制度の拘束の厳しさに、ますます貧しく、苦しい生活となっていた。1601年~の冷害が、そこへ追い打ちをかけた。
<なにもかも、ボリス・ゴドノフのせいだ>
富める者も貧しき者も、そんな絶望的な気分に見舞われていたころ、あるうわさが持ち上がる。
「なんと、死んだはずのドミトリーが生きている⁈」

ドミトリーというのはイワン雷帝の末子、雷帝の6番目の妻マリアの子なので直系の皇位継承権をもつ皇子だが、1591年に死亡した。・・・ということになっていた。モスクワから離れた場所で首を掻ききられた状態で死んでいたというが、その死にはさまざまな憶測がなされていた。ボリスの刺客に殺されたとか、その暗殺は失敗してじつは身を隠して生き続けているとか。
そして1603年、ウクライナのポーランド人貴族の城にたまたま現れた青年が、担ぎ出されることになる。彼は自らがドミトリーであると名乗り、モスクワやポーランド政府に不満をもつコサックらを率いて、旗揚げする。
<つづく>
参考文献
『ロシア史』岩間徹編 山川出版社
『シベリア』森本良男著 築地書館
『コサックのロシア<戦う民族主義の先兵>』植田樹著 中央公論新社
『シベリアの歴史』加藤九祚 精選復刻紀伊国屋新書
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