第111回 帰ってきたダッタン人⑥ ボリス・ゴドノフ

エルマークの遺志を引きついだコサックたちがシベリア開発の先兵となったが、そこへ合流したのが、逃亡農奴と流刑者たちだ。

イワン雷帝の君臨によって、土地は貴族と地主のものになった。土地だけでなく、そこではたらく農民たちも、貴族と地主のものとされた。

「農奴」とは、農業をする奴隷。貴族や地主の旦那はとかく横暴で、その苦しい生活に耐えきれず逃亡する人が続出。「逃亡農奴」とよばれた彼らは東へ東へと逃げていったので、シベリア各地に故郷を追われた逃亡農奴が散らばった。

どれほどひどい寒さで痩せた土地でも、そこで生きて行くしかなかった彼らは、シベリアをなんとか住めるところにしようと、開発に心血を注ぐ。

そこへ「流刑者」たちが加勢。流刑者とは、窃盗犯や殺人犯で<シベリア送り>になった人たちのこと、ロシア政府による最初の流刑は1593年とされており、そこから150年かけて<シベリア送り>は恒久的な制度になってゆく。つまりシベリアをつくったのは「コサック+農奴+流刑者」であり、ちょっと凡人には手を出せない最果ての地――とおもわれたシベリアに住み着いて、鉱山労働や道路建設、開拓事業に力を尽した。

流刑者は刑を終えてもシベリアの地に残る者が多かったらしい。「ウォトカとデューフカ(酒と女)」が生きがいの、荒くれものたちに愛されたのは、凍りついた土地だった。

 

そんな<シベリア送り>がはじまったころ、モスクワがどうしていたかというと、イワン雷帝亡きあとで混乱をきたしていた。

雷帝の死去が、1584年。 彼にはドミトリーという息子がいたが7歳で死んでおり(溺死)、その弟は父によって命をうばわれていて、ドミトリーの異母兄のフョードルが帝位についた。フョードルは病弱だったため、フョードルの后妃・イリーナ・コドノヴァが帝位を継ぐべきところが修道院に入ってしまい、その兄・ボリスが摂政となった。彼こそがボリス・ゴドノフ、オペラにもなっているロシア史における有名人だ。

ボリス・ゴドノフ

フョードルが1598年に死ぬと、国政を担うことになったボリスはいっそう張りきり、アルハンゲリスクを拠点とした交易や人的交流に尽力する。ところが、ヨーロッパ発の冷害に見舞われ、大飢饉が発生――多くの餓死者を出してしまう。天災時の舵取りで不評を買ったボリスは、ドミトリーを暗殺したとの疑惑も持ち上がって失脚、失意のうちに亡くなった(1605年)。

 

フョードルの死をもってロシアのはじまりといわれるルーシのリューリク王朝は、700年の時を経て終了した。その後、モスクワでドミトリーを名乗るニセモノ(偽ドミトリー)が皇帝となってますます混乱、その名も<スムータ=動乱>とよばれる時代に入る。1613年にミハイル・ロマノフが皇帝になるまでのおよそ十年間であり、ここが、ロシア史のなかで「タタールのくびき」に次ぐ、暗黒の時代といわれている。

 

<つづく>

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