ロシア人だけでなくヨーロッパの探検家たちもシベリアのクロテンを求めて、活動を活発化させていた。
クロテンが多く生息していたマンガゼヤ地域への航海は16世紀にはじまり、17世紀にかけて行われた。
質の高いマンガゼヤの毛皮はアルハンゲリスクの市場を沸かせ、その評判はヨーロッパにも及んだので、イギリスやオランダからも探検家が殺到するようになったのだ。
豊富なクロテンを運ぶ道を人びとは模索した。その往来によって北極海航路は栄え、1601年に作られたマンガゼヤの町には、いっとき2~3000もの人びとが集まったという。しかし前回も書いたように、クロテンをヨーロッパ人に横取りされることを警戒したロシア人が、マンガゼヤの航路を閉鎖。そのため、シベリア北方航路はそれ以降発展することなく、マンガゼヤもやがて衰退してしまう。

ヨーロッパ人に邪魔されることなく、もっと豊富なクロテンを求めたいコサックたちがエニセイ川から東へ、の探検を始めたのは1627年ごろ。5年くらいかけて、アンガラ川をさかのぼり、山を超えて、レナ川へたどりつき、そこからぐぐっとくだって、いまのヤクーツクあたりにロシア人極東進出への最初の拠点となる防塞を築いた。
アンガラ川からレナ川を往く道すがら、ロシア人はブリヤート人と出会う。
ブリヤート人に私は思い入れがあって、私が非常勤講師をしていた大学の夏休みにチタという町を訪れたのも、ブリヤート人との交流がきっかけだった。その話の一部は『ミルコの出版グルグル講義』(河出書房新社刊)に収録されて、当サイトにも掲載しているのでよろしかったらごらんください。このブリヤート人の地域にクロテンがわんさといたことが、
ロシア人のシベリア進出を加速させる。
そのプロセスに、ブーザ→デジネフ→アストラフという人物が登場する。
エニセイのコサックだったブーザは部下と狩猟家を50人ほど引き連れてエニセイをくだり(1636~)、いくつかの重要な川を発見。その後、デジネフが船団を率いて、イルマ河口から北極海路を往き(1648~)、チュトコ半島を回り、途中なんども難破して多くの船員を失いながらもカムチャッカ南部に達した。出発したときは200人だったメンバーのうち生き残りはたった25人、6隻あった船のうち4隻を失った。
アストラフは1697年にカムチャッカを探検。ここで日本人がはじめて登場するが、そのかかわりについてはあらためて。
こうしたブーザ→デジネフ→アストラフという人をリーダーとしたコサック探検隊の仕事によって、ロシア人は初めて太平洋をみたらしい。
「ベーリング海峡」に名を残しているベーリングが登場するのは、そのずっとあとのこと(1728~再探検)。ブーザ→デジネフ→アストラフ・・・が歩んだ道をたどったベーリングが、手柄を持っていってしまったようになっている。ベーリング海峡――その名は実にデジネフその人の名に帰すべきだったと、森本先生(参考文献①)は書かれている。デジネフの名は、チュトコ半島先端の岬の名として残っているにすぎないのだそうだ。
人の名のついた町、海、山、川は世界中にある。それらが見つかった背景に、無数の人びとの影の力。何ごとにも、先人がいる。私たちの前に仕事をした人がいたから、私たちはいま仕事ができている。そして、「つぎのひと、くる」。これはファーロードのテーマだ。
ひとまずアジアとアメリカの大陸は地続きでないということが、ブーザ→デジネフ→アストラフ→ベーリングらの探検をへて、やがてあきらかになる。
<つづく>
参考文献
①『シベリア』森本良男著 築地書館
②『コサックのロシア<戦う民族主義の先兵>』植田樹著 中央公論新社
③『シベリアの歴史』加藤九祚 精選復刻紀伊国屋新書
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