帰ってきたダッタン人②コサックのエルマーク

「コサックのエルマーク」という人が、シベリアを最初に征服した人として、ロシア・シベリア史にかならず名前が出てくる。

エルマークは、タタール人が支配していたシビル汗国(シベリア汗国)の軍隊を破り、ロシア人によるシベリア支配の第一歩をひらいた人――ということになっている。

「シベリア」というワードが最初にロシアの年代記に現れるのは1407年。

もとは「シビリ」という部落の名称で、いまのような、ウラル山脈以東の土地全体をあらわす言葉ではなかった。現在のトボリスクから南西のチュメニ付近に位置し、モスクワに狙われつつ、タタール人によるシビル汗国の支配下にあった。

そこへユグラを制圧したモスクワの力が及んでくると、シビル汗国のリーダー、エジゲル汗は、当時の皇帝(ツァーリ)=イワン四世に敗北、忠誠を誓う。

「イワン雷帝さま、わたしどもはクロテンとリスの毛皮を、年に千枚ずつ貢ぎます!」

ところが、雷帝にひれ伏していたエジゲル汗が失脚すると一転、次に即位したクチュム汗はモスクワに叛旗を掲げ出した。そのクチュム制圧に乗り出すのが、エルマークなのだ。

 

森本良男先生の『シベリア』によると、エルマークは容貌たくましく弁舌さわやかなナイスガイであったそうな。ここで、なんとなく鄭和のことを思い出す(勝手なイメージ)。

エルマークの祖父は商人。盗賊に加担し、脱獄の経験をもっていた。そんな男の血を受けたエルマークが地味な仕事に満足するはずもなく、はじめはボルガ川のハシケで働いていたが、やがて盗賊団に身を投ずるようになっていく。

 

ロシア西方の国境を接するポーランド、リトアニア、リヴォニア(ドイツ人リヴォン勲章騎士団が支配)の領土争いが、はじまっていた(第一次西方戦争、1554年)。

ロシアはドン・コサックらを騎兵部隊として戦った。そのアタマン(首領)であったエルマークはすぐれた指揮官として戦果を上げたが、その後、イワン雷帝に追放されてしまう。いったいなにがあったのか。イワン雷帝のご機嫌をそこねさせる何かをしでかしたのだろうか・・・いや、トップが仕事のできる最側近を、何かの拍子にとつぜん切る――は、よくある話だ。いちばん切っちゃいけない人を、切る。

「エルマークを捕らえよ、残忍にして恥ずべき死刑に処す」との命は下された。

そこでエルマークは、シベリアに新天地を求め、そこへ向かうことになる。

がんばれ、エルマーク!

ゆけ、シベリアへ!

それがよかったのか悪かったのか、は歴史が決める。

450年後に極東の片隅で、小さな私がいま彼について書いているということもまた、そのプロセスの一部だ。

 

500~600人ものコサック仲間が、エルマークに付いた。

けっこうな人数である。干された人間のチームとしては、小さくない。エルマークの人徳かもしれない(また勝手なイメージ)。

彼らは東へ東へと、進んだ。

1577年、一行はウラル近くの町に到達する。

そこでハバをきかせていたのが、ストロガノフ家であった。

出た、「ストロガノフ家」!

これもロシア・シベリア史を読むと、必ず出てくる。

ロシアの毛皮商人・ストロガノフ家はエルマークとともにシベリア史初期の重要な登場人物で、毛皮商でのし上がったストロガノフ家だが、もとは岩塩の産地の経営をしていた。

ストロガノフ家は毛皮入手のための探検隊を組織したかった。

ストロガノフ家はエルマークのコサック一行を歓迎し、食糧や武器を与えた。

 

<つづく>

参考文献
『シベリア』森本良男著 築地書館
『コサックのロシア<戦う民族主義の先兵>』植田樹著 中央公論新社
『シベリアの歴史』加藤九祚 精選復刻紀伊国屋新書