第101回帰ってきたダッタン人③ 毛皮商のストロガノフ家

親分に干されて傷心(勝手なイメージ)のエルマーク、シベリアへ向かう。

エルマークを追放しただけでは腹の虫がおさまらない雷帝が、エルマークの息の根を止めるべく軍を派遣。モスクワ軍に追われつつ、エルマークは部下を引き連れてボルガ川からカマ川(ボルガ川の支流)の上流に逃げた。そこで待ちうけていた、運命の出会い――豪商・ストロガノフ家の登場である。

 

ビーフストロガノフの由来といわれる、ロシアの貴族・ストロガノフ家は前回も書いたが、塩の商いをしていた。

「あらたな塩湖の発見のために、空き地開発をしたい」とイワン雷帝に申し出て(1558年)、開発の許可を得た当主・アニカ・ストロガノフは、カマ川からチュソバ川にいたる地域の密林を切り開き、その所領を許された。タタールの侵入を防ぐ武器と、20                               年間の納税免除という特典が与えられ、その期間がすぎるとストロガノフ家の土地に来た住人から税を徴収し、モスクワへ納めた。住民をとりまとめ、裁判権も握った。領地の人びとを狩猟、農耕に従事させ、鉄鉱の発見は無税で作業させた。そのようにして、ストロガノフ家が監督する広大な世襲領地が作られていった。これが、モスクワ政府の支援する本格的なシベリア植民地事業の始まりであった。

このころすでに、西ヨーロッパとの交易がさかんになっていた。

北方の白海(コラ半島)のほうを通るルートで、商人は行き来した。

売れすじNO.1商品はもちろん、クロテンだ。

西ヨーロッパもロシアと同様に寒く、クロテンは必需品であると同時に、富を象徴する贅沢品でもあった。

西方からのクロテン需要が増大する一方、ウラルより西側の地域ではクロテンを取り尽してしまい、どうにか東へ――クロテン獲得のためのシベリア開発は、最重要課題だ。

 

ところがたびたび、タタールの残党がしぶとく襲ってくる。シビル汗国でエジゲル汗のあとに即位したクチュム汗の一味だ。かねてから彼らを退治したいと熱望していたストロガノフ家、そこへのこのこやってきたのがエルマークだった・・・ということらしい。

捨てる神あれば拾う神あり。

いや、ストロガノフ家が雷帝との関係をダシにしてエルマークをそそのかしたとか・・・いろんな説があるらしいが、とにかくエルマークはストロガノフ家の支援を受けることになった。

 

エルマークは部下を引き連れ川をさかのぼり、ウラルを越えて、さらにいくつもの河川を越え・・・クチュム(第99回)の首都に入る。そこでタタールと壮絶な戦闘を展開(1581年)、なじみのない地名だらけなので戦闘内容についてここでは紹介しないが、とにかくこれに勝利する。

最初はストロガノフ家の私的利益のために働くという経緯だったが、やがてシベリア征服という大手柄を立てたエルマークは、イワン雷帝にシベリアみやげの大量のクロテン(2400枚との資料あり)とともに「自分が征服したシベリア全土を献上します」との旨を、使節イワン・カリツォを通じて雷帝に申し出る。

イワン・カリツォがそう雷帝に伝えると、彼は自ら着ていた毛皮の外套を脱いで、エルマークにこれを下賜かしするとしてイワン・カリツォに託し、エルマークに「シベリア公」の名を与えたという。シベリア出征前の罪(なんの罪だかわからないが)を、許されたのだ。

死刑宣告からの大逆転!

おめでとう、エルマーク!

 

それまでクチュムにしたがっていたシビリの村々も、エルマークに服従を誓った。

ひきつづきエルマークは、仲間たちとともに戦後処理に励みつつ、部隊を増強し、さらに遠方へと支配地域を広げていたが、その遠征でイルトゥシ川をくだる途中、タタールの残党に襲われる。

1585年8月5日。メンバー全員が疲労困憊で寝入っていたとき、倒したはずのクチュムの部隊の奇襲を受けた。ここで、エルマークは300人の仲間とともに、戦死する。

 

皮肉なことに、イワン雷帝から有難く頂戴した甲冑が重すぎて、その重みで、川で逃げる途中に溺死したと伝えられている。

 

イワン雷帝は、すでに死去しており(1584年3月)、その報せをきくことはなかった。

<つづく>

 

参考文献
『シベリア』森本良男著 築地書館
『コサックのロシア<戦う民族主義の先兵>』植田樹著 中央公論新社
『シベリアの歴史』加藤九祚 精選復刻紀伊国屋新書

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