第98回還暦クラス会(1)

還暦である。

そのため、クラス会の話が、いくつか舞い込んできている。

いまはSNSがあって、昔の友人知人とつながることはカンタンなのだ・・・と私が理解したのはここ数年のことだ。

SNSにみんなが熱を上げ始めた頃、私はガン闘病をして、以降はロシアへ行ったり、原稿書きで引き籠ったり。それまで熱心にやっていたビッグバンドの演奏活動を休止したりもして、世の中の動きにすっかり出遅れたらしい。

「さいきん誰からも連絡がこないなあ・・」

と、メールを開くたび思っていたが、私以外の人びとは、SNSでやりとりをしていたのだ。さまざまなグループの輪は健在で、SNSをやってない自分だけがその輪から外れて孤立していたというわけだった。

 

コロナ禍中に拙著が出版されたため、版元さんより「ツイッター(当時)くらいやってください」とたしなめられ、アカウントというものを取った。けれど上手につかえないままほったらかして、やめてしまう。

「ミルちゃんにはSNS向いてないと思ったよー。フェイスブックはどう? ツイッターよりは、使い心地いいと思うよ」

友人のサトケイがそう言って、そのアカウントを作ってくれた。が、真面目な性分なので、人の投稿をつい全文(ツイッターより長文だ)読んでしまい、くたびれることがままある。これもやめちゃおうかなと何度も思ったが、それでもこんな私に、連絡をとってくれようとする人がときおり現れているため、アカウントは残してある。

 

昨年、当サイトに掲載していた「ダッタン人の踊り」は、自分の中学時代について書いたものだ。私はクラリネットを中2で始めて、中学時代の記憶といえばそこに書いたとおりブラスバンド部のことばかりで、同期のコジマくん(コントラバス)や後輩の森(シン)くん(トランペット)に話を聞いたり、コンクールや文化祭の音源を用立ててもらったりして、それを振り返って書けたことはとても楽しかった。

 

しかしブラバン以外の時間というものも、中学生の私にはあったはずなのである。

それが、よく思い出せない。

もしも還暦クラス会に参加すれば、少しわかるかもしれないなと思った。

当時の中学校というものが、どうだったのか、どんなクラスだったのか、そこにいた子たちはその後をどう過ごしたのか――いまさら知ったところでなんの役にも立たないと思わないところは、私も在野作家のはしくれだ。

 

クラス会の案内が来た当初は、すぐに断った。

出版社にいた編集者時代と変わって、いまの私は大勢の集まりが苦手である。理由はそれだけでなくて、人生の大イベントの渦中にいたからなのだ。

 

親を見送ることがこんなに悲しく、こんなにつらく、たいへんなことだったなんて。

誰もが通る道であり、私の友人知人の多くがそこを乗り越えているというのに、これまで私はなんにもわかっていなかった・・と、つくづくおもう。

この道を通ったすべての人を、私は心底、尊敬する。

愛する家族との別れが、目前に迫っていた。

悲しみの量の膨大さに毎日おどろき、それでもやらねばならぬことは山ほどあって、クタクタになるなか、前々から決まっていたライブがあった。

押上のカフェに、「ボッサ・アミガ」というグループで出演することになっていた。

その名のとおり、ボサノバをやる仲間である。

2022年の春に、作家の山本文緒さんをしのぶ会があって(私は編集者のころに山本文緒さんと親しく、本も作っていたことがある)、そこで新潮社の小林加津子さんと久しぶりに会った。

加津子さんとは20年以上前に、ジェイコブスラダー(Jacob‘s Ladderリーダー・奥泉光さん、ボーカル・辻仁成さん)というR&Bバンドでご一緒していた。加津子さんも私も、それぞれの会社で編集の仕事をしながら、音楽活動をしていたのである。

文緒さんが呼んでくれたのかもしれない再会をよろこびあい、その後、加津子さんの友人のピアニスト・望月智子さん、そのまた友人のギタリスト・飯田良子さんと四人で、ボサノバユニットを結成した。

なぜ、ボサノバだったのか。

それについてはあとまわしにして、とにかくそのライブが決まっていたので、死と隣り合わせの父と母の病院通いの日々に、私のあたまではつねにボサノバが鳴っていた。

この状況とちっとも合わないなあと思いつつ、でも脳内のミュージックは止まらず、私は人生の大イベント期間を、ボサノバのナンバー(その多くがジョビン作)とともに過ごした。

 

 

<つづく>