第92回ダッタン人の踊り(14)男子の時間 ――祝典行進曲

安くて質の良い日本製品が海外へ流れ、高い評価を得て、どんどん売れていった。

貿易黒字とともにジャパンマネーの地位も高まっていき、円相場は1ドル290円から上昇しはじめ、78年10月には1ドル170円に。

80年代に突入すると、自動車生産台数、世界第1位。粗鋼生産量、資本主義国で第1位。

急激な経済成長と貿易黒字は、日米経済摩擦をはじめ諸外国との軋轢をうんだ。

オイルショック後に日本がサミットの一員に迎えられてからは、「大国」としてのいろんな役目を押しつけられるようになる。

「日本はいやおうなしに国際的な要求を受け入れ、国内の政策をそれに合わせて調整せざるをえなくなった」(参考文献①)

世界経済を支える『大国』としての「義務」を負うようになった日本。

だが、戦後の平和志向をぐらつかせる「外圧」にたいして、このころはまだ、のらりくらりとやっていた。

日本企業は黒字がつづき、世界からジャパンバッシング(日本たたき)されても堪え、工業製品づくりに励む一方で、余剰資金を海外の証券投資にまわした。アメリカとの金利格差に気を遣った日本の低金利政策が、やがて株価の高騰と土地投機を招く。

そしてバブルへ向かってまっしぐら。1987年10月のブラックマンデーを迎えるまで。

弾けたバブルをひきずっていた出版業界で私が働きだすのが、1989年の春。

それまでの十年――クラリネットの吹奏に熱中していた頃――のお話である。

 

1980年が明けて、わがブラスバンド部ではフシミ先輩やバンナイ先輩が卒業を控えていた。われらが初めて送り出す、卒業生だ。

たいへんお世話になった先輩がた――雛鳥だった私にあれやこれや教えてくれた人――であるというのに、彼らをどうやって見送ったのか、不義理なことに私はよく思いだすことができない。

いまさらながら、クラリネットはなかなかむずかしい楽器である、と思う。

つい先日、ボッサの仲間とおしゃべりしていたとき、ピアノの智ちゃんが、「クラリネットって、ハッタリの効かない楽器だよね~」と言っていたのが、まさにそうだと思った。サックスなどがパワーや勢いでいけるところを、クラリネットでは渡れない。私はサックスも吹くけれど、サックスをやるほどにクラリネットの地味さを実感する。地味で地道、目立つには地面を這いつくばるしかない。そんな楽器の入門編で、私の手を取り、手を引いて、一緒に走ってくれた人にたいして、一緒に居たのはわずか一年ほどであるとはいえ、巣立ってしまえば知らん顔? 恩なんてすっとばしてしまう恩知らずだったのか?――と、こうべを垂れたこのタイミングで私の手元にやってきた郵便は、天の配剤ともいうべき贈り物だった。

 

それはサンダ市に住むシン君から届いた、当時の音源である。

ていねいに梱包された封筒の中には、私たちのブラスバンド部での演奏テープとCDR、文化祭と市内小中学校の音楽発表会(昭和54~55年)のプログラムも同封されていた。

ガリ版印刷されたメンバー表の名前を見たら、ひとりひとりの演奏している姿が、はっきりと浮かんだ。

そして、昭和の時代のあの場所で、いったいどんな方法で、あの録音ができたのだろう・・という澄んだ音。マイクの位置や録り方を工夫されたにちがいない。指揮者Z教諭のお小言や、部員の楽しそうな笑い声まで、まるでそこにみんながいるかのようだ。

 

コジマ君の談によると、当時のブラバン男子たちは、よく一緒にいたという。集まって何をしていたかというと、オーディオだったり、ものづくりをしたり。部になかったドラムセットを用意しようと、シンバルを譜面台の連結部分に挟んでハイハットを手作りするなど、「ないものはなんでも自分たちで作った」と言っていた。

みんなオーディオ好きで、まだそれなりに幼く、資金や材料も乏しかったであろうなか、13,4歳の彼らなりにできる工夫と挑戦をしていたらしい。

音楽の知識も演奏力も、そうしたなかで育まれたと思われる。やがて彼らは女の子に夢中になったり、受験で忙しくなったりもしただろうけれど、そのちょっと手前の、時間ではなかったか。この録音も男子が遊びを極めたときの、奇跡の賜物と言っていい。それが40年も経って、私の気まぐれな執筆をきっかけに、共有されることとなった。

 

彼らがこれをやっていた時期に、女子はどうしていたのだろう? 自分の場合は、クラリネット以外に心奪われたものを思いつかないのだが、好きなレコードから自分用にテープを編集したりはしていたと思う。あとはやっぱりマンガや絵を描くのが私は好きだったので、一人で遊ぶことは多かった気がする。

 

CDやカセットテープのラベルには録音の日付や曲目が丁寧に貼られていて、シン君が自らの過去をいかに大切に扱っていたかが、うかがえた。

そのおかげで、「オデッセイ序曲」(前出、コーディル・作)と同時期に、「祝典行進曲」(團伊玖磨・作)をやっていたことがわかった。卒業式と予餞会へ向けて、練習していたらしい。

録音を聴くとミスが目立つ。調号を落としまくり、ダブルタンギングの連打でリズムとメロがずれている。「祝典行進曲」は難曲だったかもしれない。当時の天皇(現上皇)のご成婚(1959年4月10日)を記念して作られた曲であるが、そのときのパレードでは演奏されなかったというから、大人にも難しかったのだろうか。

これをつくったとき團伊玖磨さん34歳。ちょうどその34年後に『新・祝典行進曲――皇太子殿下ご成婚を祝して』も作曲されているのだけれど、氏の談「34年のうちに時代が変わった、皇室の開かれかたも、パレードの仕方も」。「祝典行進曲」は馬車のパレード、「新・祝典行進曲」は車のパレード、ということらしい(参考資料②)。私はだんぜん、前者のほうが好きだ。

なぜこれを選んだのか、Z教諭に連絡して訊いてみたところ、

「喜びに満ち溢れ、しかも高貴な感じがするからー」

とまっとうなご返答。まさに。聴けば日本は帝国――エンペラーの国だったのだ・・という日頃忘れていることを思わせられる。この高貴なる曲で、われわれは最初の卒業生を送ったのだと思うと、先輩たちへの不義理の悔いが、少しだけやわらいでくる。

<つづく>

参考文献;①『昭和史・下』中村隆英・著(東洋経済新報社)
参考資料;年表昭和史(岩波書店)
     ②『愛の喜び/新・祝典行進曲――皇太子殿下御成婚を祝して――』(ビクター)

*当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。