オクターブキーというものが、サックスにもフルートにも、ある。
左親指でそれを押すと、音が一オクターブ(12音)上がる。
低い「ミ」を吹いて、それにオクターブキーを加えると、高い「ミ」になる。
カンタンだ。
それが、クラリネットの場合、そうならない。
オクターブキー(に準ずるもの)があるが、それを押しても一オクターブ上がるのではない。一オクターブ以上、上がってしまうのだ。
低い「ミ」を吹いて、オクターブキー(に準ずるもの)を加えると、高い「シ」になる。
低い「ド」が、高い「ソ」に。
低い「レ」が高い「ラ」に。
そんな楽器、他にない。
きれいに音をつなげるためのエクササイズで、「オクターブ練習」というのを管楽器の人はやるものだが、サックスやフルートの人の「オクターブ練習」は、ドド、レレ、ミミ、ファファ・・・、クラリネットの人は、ドソ、レラ、ミシ、ファド・・・えーっ??? と思うが、クラリネットとは、そういう妙な楽器なのである。
「ドソ、レラ、ミシ、ファド・・・・ソレ、ラミ、シ♭ファ・・・」
と毎日、何度も繰り返すうちに、音が飛んでもきれいにスラーをかけて吹けるようになる。それができると、曲の中で「歌える」のだ。
私は、歌いたかった。
楽器が上達するにしたがい欲も出て、メロディアスな曲でソロが吹きたくなった。
けれど、譜面上でソロパートは、1stクラリネットに振られている。
ファーストを担当させてもらわなければ、ソロは吹けないのである。
「ポンセ・デ・レオン序曲」(Ponce de Leon,Overture)という曲をやることになった。
これが、旗揚げブラスバンド部で扱った最初の「吹奏楽オリジナル曲」(クラシック曲の一部を引っ張ったものではなく、吹奏楽のために書かれた曲)だった。
吹奏楽オリジナルの多くがA-B-Aで出来ており、中間のBがバラード部分、「ポンセ・デ・レオン」の中間部にも、ゆっくりテンポの美しい旋律があった。この曲を書いたオリヴァドーティ(Joseph Olivadoti,1893-1979)はオーボエ奏者だ。私はこのメロを吹きたくてたまらなかったが、オーボエ・ソロは、1stクラリネットに振られているので、ソロはバンナイ先輩が吹いていた。それを聴きながらいつも、いいなあ~と思っていた。
とくにクラリネットとフルートの掛け合いのところがあり、そこが好きだった。
フルートにハナダ先輩という美人奏者がいて、彼女は演奏も上手だった。
バンナイ先輩とハナダ先輩が、王子様とお姫様の会話のようなロマンティックなソロを交わしているのを耳にしながら、私も、お姫様の囁きを歌いたい・・・とうっとりしていた。
ここで前回の訂正を少々。
前章「小フーガト短調」で、「はじめて1stクラリネットの譜面をもらった」と書いた。
それはまちがいではないのだが、やった曲の順番としては、この「ポンセ・デ・レオン序曲」が先だった。あのあと、コジマ君に取材してわかったことだが、ほかにもさまざまな事実が判明。コジマ君はすばらしい記憶力に加えて、クラシックにすこぶる強く、彼の協力を得て、ほんとうにありがたかった。これで私は、前へ進める。
「ポンセ・デ・レオン序曲」を書いたアメリカの作曲家・オリヴァドーティは、イタリア移民だった。7歳からバンドをはじめ、作曲や器楽演奏を学び、18歳で渡米。ニュージャージー州やミネソタ州で演奏活動をしたあと、シカゴの「ミリオン・ダラー・バンド」に入り、巡業。1924年にアメリカ市民権を取得した。その後、シカゴ交響楽団のオーボエ奏者をつとめながら、音大教員などもする。1942年に海軍へ、終戦後はカリフォルニア州ロングビーチに移り住み、市民楽団等で活動をつづけ、83歳で生涯を閉じた。
技術的に平易な、スクールバンドのための名曲をたくさん残しており、この「ポンセ・デ・レオン序曲」のほかに、「バラの謝肉祭」という曲も、当時(1970~80年代)の中高生にたくさん演奏されていたと思う。
ところで「ポンセ・デ・レオン」って、誰?
これが、今回調べてみたら、私のスパイスロードとつながっていた。
まだマラッカ王国のあった時代のスペイン人の探検家で(1460頃~1521)、プエルトリコを征服した人だった。
当時、スペインのコンキスタドール(征服者)と呼ばれる人びとが世界の海を跋扈していた。その一人、ファン・ポンセ・デ・レオンは1493年のコロンブスの第二次航海に参加、1508~09年にプエルトリコ島(現・アメリカ自治領)を発見し、総督となった。
プエルトリコといえば、プロレスラーだ。私が角川書店勤務時代、「月刊カドカワ」編集部の先輩たちとよくプロレスを観に行っていたころ、プエルトリコ出身のレスラーというのが時々リングに上がっていた。だいたい流血戦になる、ああいう屈強な男性がたくさんいるんだ・・・というイメージ。「プエル・トリコ」だと思っていたが、「プエルト・リコ」が正しい。スペイン語で、豊かな美しい島、という意味だった。
その豊かで美しい島には、タイノ人という先住民たちが3万人ほど住んでおり、彼らに過酷な労働を強いて開拓を進めたポンセは、ひどく彼らのうらみを買った。
その後、「不老長寿の泉」を求めて(という伝説がある)再び航海に出たポンセ。1513年、フロリダを発見する。そこでも総督をつとめ、また先住民のうらみを買う。
そしてコロンブスの第三次航海で発見されたカリブ海のトリニダード島へ、ここでやはり先住民と戦って、しまいには、先住民の放った毒矢が原因で死亡する・・・という、ようは先住民の地に乗り込んで、先住民を追いやり、先住民のうらみを買う、ということを繰り返した人生だったようである。コンキスタドールというのは奴隷商人も兼ねていただろうから、先住民にはうらまれ、自国では権力闘争に巻き込まれ・・・といった生きた心地のしない日々を送っていたにちがいない。だとするならば、バンナイ先輩とハナダ先輩の、あのロマンティックなコーナーはいったいなんだったのだろう? あの描写は、戦いつづけたポンセの、ほんの一瞬、凪いだひととき・・・に思えなくもない。恋人と交わした抱擁か、満天の星を仰いだときか、はたまた熱帯の密林でひとすくいの水を飲んだときなのか・・・。いつかこの曲を吹く機会がもう一度あるなら、ぜひ1stクラリネットで臨みたい。
<つづく>
参考:ブリタニカ国際大百科事典
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