先日、とある仕事で首都圏の中学校を訪問した。
住宅街のなかにある、生徒数500人くらいの学校である。
そこで話をしていたときのこと、「吹奏楽部」が話題にのぼった。
ちょうどこれを書いていることもあり、自分が中高時代、吹奏楽に熱中していたことを申し出たのだが、微妙なムードが立ち込めてしまった。
「吹奏楽部って、スパルタじゃなかったですか・・・?」
と、若い養護の先生。長い髪を一つに結わき、華奢な身体にかわいいエプロンをかけている。二十代半ばの彼女は、かつて自分自身が中学生だったとき、吹奏楽部はこわい場所だったという。
そういう話は、ときどき私も聞く。
「吹奏楽は大好きだけれど、厳しすぎる。卒業したらもうやりたくない」
そして、学校を卒業してから一度も楽器を触らずに何年も経っている・・・という人に会うことがある。
いまの学校も、そうした傾向にあるのだろうか?
吹奏楽部を含む運動部系の部では、先生の発言力や統率力がどうしても強くなりがちだ。
吹奏楽部には、アスリート並みの競争がある。学校によっては運動部のように走ったり腹筋をしたりトレーニングをしたりもするし、前回書いたような1st2nd・・・といった担当パートがらみのヒエラルキーが生じたり、コンクールに出場するような学校にはその競争もある。
先生は情熱のあまり、子どもたちに過度なムリを強いることもあるかもしれない。
そうした先生が担任のクラスでは、インフルエンザやコロナが蔓延しやすいのだそうだ。なぜなら、体調不良の生徒がそれを言い出せず、がまんするから。
「保健室へ行っていいですか?」などと言おうものなら「弱い子」という目で先生からもクラスメイトからも見られるのではないか? そう思って一人でじっと耐えて授業に出ているうちに、となりの席の子にうつし、その子がまた別の子にうつし・・・とクラスじゅうにウイルスが広がってしまう。
衛生管理をしている養護教諭の立場としては、ちょっとでも具合が悪ければ保健室へ来てほしい、いつでもここへ来ていいんだよ・・・というメッセージは発しているのだけれど、先生中心の強力な管理体制下にいる生徒の場合は、なかなか来ることができないのだという。
吹奏楽部の顧問が権力者となって団体の頂点に君臨し、生徒たちを厳しく管理している――という学校は昔からあり、いまもあるのだろう。
「吹奏楽部ってタテ社会じゃないですか?」と言われれば、そうなのかもしれないとも思う。音楽をつくるチームの頂点が指揮者なので、場所が学校だと、どうしても顧問の先生の独裁になりがちだ。指揮者が主導権を握るのは音楽をまとめ上げるうえで必要なことなのだけれど、厳しく管理されると、生徒たちは、さらにその生徒間でシビアな主従関係をつくる。先輩・後輩の関係性に於いても、各楽器のパート内に於いても、だ。
そうした居場所で歯を食いしばって吹奏楽ライフをまっとうした人が、大人になって先生となり、自分がされたことを無意識に、まんま子どもたちにしてしまう――という連鎖も起こりうる。
それは吹奏楽という音楽形態の出どころが軍隊だった・・ということと無関係でないのかもしれず、そのあたりはこれを書きながら今後考えていきたいと思っているが、もちろんそうした組織的「圧」から解放されている吹奏楽部だって、たくさんある。
顧問と生徒がちょうどよい関係で、自由で、穏やかに、音楽できる場としての部活動。私は、そうした場に恵まれたにちがいなく、だからいまも楽器を吹いているのだろう。
最初に出会ったのがZ先生とその仲間たち――であったことは幸運だった。
さて、その時代へ、話をとばそう。
時は70年代の終わり、海の向うではイラン革命があり、イギリスで先進国初の女性首相(サッチャー)が誕生し、アメリカではスリーマイル島で放射能漏れ事故が発生、第二次オイルショック中の日本には米大統領カーターが来日した・・・という年。
旗揚げしたばかりの頃は穴だらけだったパートがじょじょに埋まり、市販されている譜面ができるようになってきた。
バンドの顧問で指揮者のZ先生は、教則本を買ってきたり、吹奏楽専門誌「バンドジャーナル」を購読したりして、勉強していた。未来の私はバンドジャーナルさんとお仕事をする機会に恵まれるが、それはここから三十年あとの話。
月刊誌だった「バンドジャーナル」には毎号、付録が付いていた。流行りの歌謡曲の吹奏楽アレンジや、演奏会でやったらお客さんが盛り上がりそうな、有名な曲のスコアである。Zはバンドジャーナルの付録からも、曲を選んで私たちに与えた。
そのなかに、バッハの「小フーガ・ト短調」(バンドジャーナル1979年8月号付録)というのがあった。フーガなので、皆が同じ旋律を交互に繰り返すというこの曲を、私はたいへん熱心に練習した記憶がある。というのも、ここで私は初めて、1stクラリネットの譜面をもらっているのだ。
1stになるということは、人生の一大事である。
このとき私は、どうしていたのだろう?
前回書いたように、吹奏楽は「1st、ファースト」。みんな1stを吹きたい。
初めての1st・・・? そんな重要ポイントであるというのに、いつどこで演奏したのかも思い出せない。
「スパルタな吹奏楽部」でなくとも、やはりある時期、徹底的に根詰めて、厳しい練習に耐えなければ曲は吹けない。おそらくあのとき私はこの曲で、楽器演奏の何か大事なところをクリアしたはずなのだ。
出来事の順番や詳細に自信がない・・・ということは、自分の編集者時代を書いた『バブル』(光文社)のときにもあった。でもあのとき私は誰にも取材しなかった。
人と思い出話をしてしまうと大事な部分が壊れそうな気がして、自分の記憶だけで突き進もう、そう思って最後まで書いた。
しかし書きおえてみると、もっと素直に、自分とかかわりのあったいろんな人たちに連絡して、話を聞いてみてもよかったのかもしれない。
したがって今回のこれ――吹奏楽部時代の執筆にあたっては、積極的に知り合いに連絡して、話を交わしてみたいところである。
ちょうど同期のコジマ君(コントラバス)と、ビッグバンド仲間のアザミ君の仲介で、40年ぶりに再会したところだった。彼なら、こころよく取材に応じてくれそうだった。小フーガから四十余年がすぎ、とうに仕事も家庭もあるりっぱな大人をこのような要件で呼び出すのも気が引けたが、本稿を前へ進めるためには、つべこべ言っていられない。
永楽帝の蒙古親征からダッタン人の話へ、そして「ダッタン人の踊り」から、わが吹奏楽部時代の思い出・・・へ飛んでしまっている。でもなぜかいまの私は、これを書かずにおれないのだった。
<つづく>