第78回マラッカ王国のナゾ(10)永楽帝の蒙古親征

1511年に砲弾でマラッカを襲ったポルトガル人が、いち早くアジアに進出。アジア東方地域につぎつぎ来航し、やがてマカオに拠点を築くと、阿片や香料(竜涎香=マッコウクジラの排泄物)などを持ち込んで、それらは大陸へと流れる。かつての鄭和の道は、海のアヘンロードとなってしまうのか・・・。

鄭和が生まれたころ、すでに明が起こっていたことは先に述べた。

元の勢力下にあった鄭和の暮らす雲南地方にも、明の力がおよんだ。

そして多くの民が明の捕虜となり、明によって去勢された。

捕虜の子どもたちもまた、去勢され、雑用などに使役させられた。

奴隷が財産だった時代、征服された地域の人びとが宦官にされるのはしきたりであった。鄭和は12歳で明軍に捉えられ、南京へ連れて行かれ、宦官にされた。

 

明によって去勢され、明に尽くした鄭和の一生は、けっきょくのところ、なぞにつつまれている。彼の航海も、チームリーダーとしての名前がぽんとそこにあるだけで、業務の実態や労苦については想像するしかない。先人が残してくれた書物を読むかぎり、その中の鄭和は逞しく、優しく、義理堅い。

世界帝国・元のあとを継ぐかのように、鄭和の遠征は大海を制していった。

交易がおもな目的とはいえ、「遠征」というからには相手国に「服従」を求めるものだった。にもかかわらず、七度もの航海で、鄭和はムダな戦をしていない。第三次航海のとき錫蘭セイロン王と戦ったのが唯一の戦争といわれ、現地の内乱や暴力団の抗争に巻き込まれることはあっても自ら武力を用いたことはほとんどなく、一度行った場所にはその後何度も訪れている。ゆく先々で良好な関係を結んでいたことがうかがえるし、それは鄭和の人柄や外交のうまさによるものだと思える。

しかし個人の鄭和がどれほど優秀だったかは、問われない。すべて権力者の実績になる。「鄭和の仕事」ではなく「永楽帝の仕事」として歴史に刻まれていく。では部下に任せて自分はなにもせず、てがらを独り占めするばかりの権力者だったかといえば、永楽帝はそうでもないらしい。「海の遠征」は鄭和に任せたが、「陸の遠征」の指揮は自らとっていた。「蒙古親征もうこしんせい」といわれる。

親征とは漢語で「みずかく」、君主みずからが指揮をとって戦争に出ていくこと。

永楽帝は、みずから軍の指揮をとり、モンゴルへ遠征した。

モンゴル高原やシベリア、カザフから東ヨーロッパのリトアニアなど広域で活動していたタタール(トルコ系民族)と、モンゴル北西部のオイラート(モンゴル系民族)をやっつけるためである。

タタールといってまず思い浮かぶのは「タタールのくびき」だ。ロシア史を勉強すると、しょっちゅう出てくるワード(Татарское Иго)で、それは、かつてのルーシ(いまのロシア・ウクライナ・ベラルーシ)が、13世紀前半~およそ2世紀にわたってモンゴルの支配を受けた時代の、ロシア人にとって二度と繰り返してはならない、そしてぜったいに忘れてはならない屈辱の出来事をさす言葉として、登場する。ロシアがいかに侵略というものを執拗に嫌い、と同時に執着しているかがうかがえるキーワードでもある。

タタールは、韃靼だったんともよばれる。

韃靼といえば、木管楽器を演奏する筆者としては「ダッタン人の踊り」に触れないわけにいかない。ボロディン作曲のオペラ『イーゴリ公』のなかの一曲で、中高時代を通して吹奏楽部に打ち込んだ自分にとって特別なものである。美しい旋律のソロがあり、原曲ではオーボエだが、吹奏楽では多くの場合クラリネットが担当するという、ソリスト憧れの曲なのだ。「ストレンジャー・イン・パラダイス」というタイトルで、ポップスとしても親しまれている。

『ロシア音楽はじめてブック』(オヤマダアツシ著)によれば、ボロディン(1833-1887)は生涯アマチュア音楽家だった。生まれたときの身分は農奴(ロシアでいう領主に雇用された農民)で、母親は貴族の家政婦だった。名誉ある地位を求めて医者の道へ進みながら(途中で化学者に転向)、音楽にも親しむ。軍の病院で働いていた23歳のときに、17歳のムソルグスキーと出会い、彼を通じて多くの音楽仲間と出会い、楽器演奏だけでなく自ら曲もつくるようになる。

36歳のときに作曲をはじめた『イーゴリ公』(12世紀の史実を記録した『イーゴリ軍記』がベースの叙事詩的オペラ)は未完の作品となった。ボロディンは53歳で亡くなるので、のちにリムスキー=コルサコフとグラズノフが手伝って完成させている。晩年には交響曲1,2番や交響詩「中央アジアの草原にて」などが人気を博すとともに、化学者としても国に大きな業績を遺したのだそうである。

ちなみに「イーゴリ公」に登場するのはタタール人ではなくポロヴェツ人(ティルク系遊牧民族)で、したがって正しくは「ポロヴェツ人の踊り」。近年はそれで表記されることも増えてきたという。やっぱりダッタン人の踊りはダッタンでないと気分が出ないよな~と思いつつ、ここまでオヤマダアツシさんの本を参考に紹介したが、私が愛読し大切にしてきたこの『ロシア音楽はじめてブック』、とてもよい本なのだ。何度も読み返して、どのページも傍線とエンピツの書き込みでいっぱいにしている。ところでこれは2012年に出ていて、続編とかないかな?と思いつつオヤマダアツシさんを検索してみたところ、2020年9月に60歳で亡くなっていたことが今回わかった。とても悲しい。版元・アルテスパブリッシングさんの追悼の記事に、涙してしまった。オヤマダアツシさんとアルテスさんがこの本を遺してくださったことに心から感謝するとともにご冥福をお祈りいたします。

話を戻すと私はこの「ダッタン人の踊り」のソロを吹きたくてたまらなく、しかし中高通して自分の吹部でこの曲が取り上げられることはついぞなかった。他校が吹奏楽コンクールで演奏するのを聴くたび、うらやましくてしかたがなかった。にしても「ダッタン」とはヘンな名だ、「ダッタン人の踊り」のダッタン人とはいったいどんな人たちなのか・・・と、しかし当時の自分にはそれを追及する気も機会も力もなかった。

高校を卒業し、大学入学と同時にスイングジャズ研究会で、ビッグバンドジャズに没頭する日々が始まった。吹奏楽とダッタンのことはすっかり忘れて社会人となり、出版社の編集者になっても、ダッタンを思い出すことはなかったのに、出版社をやめて物書きをはじめたら取材でロシアに縁ができ、ロシア史を勉強するなかでダッタンと再会するのである。

「ダッタン人の踊り」との出会いから、三十余年の月日が流れていた。

<つづく>

参考文献
『人物 中国の歴史8』 陳舜臣編集 集英社
『ロシア音楽はじめてブック』オヤマダアツシ著 アルテスパブリッシング

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