30年ぶりに室蘭を訪れたという感慨は、ちっとも湧いてこなかった。
そのかわり、帰京して日が経つにつれ、室蘭のことが気になった。
芹澤夫妻と道南をドライブし、いろんな景色を見たはずなのに、赤茶けた山々に囲まれた港の姿が、ほかのどこよりも私に何かを働きかけてくる。
あの日は雨が降っていた。
そうでなければ歩き回ったかもしれないけれど、トイレ休憩のためにクルマを降りただけ。土産物屋さんをぐるりひやかして、港にいたのはほんの15分くらいだったと思う。それでもこれほど私の心占めるということは、この地がクロテンと無関係でないということか。
このあたりも、炭鉱の町だった。室蘭という名は、アイヌ語の<モルエラン>で「小さな坂をくだる道」との意味をもつという。<モルエラン>は、山から港へとつながれた通路であったのだろう。
私が以前訪れたミルト=美流渡(第53~56回)への道にあった岩見沢と、この室蘭(当時は輪西)をむすぶ石炭積出し専用鉄道が、1892年(明治25年)に敷設されている。
炭鉱町になる以前はアイヌの人びとが狩猟採集をして暮らしていた場所につき、石炭積出し鉄道は、クロテンの流れた道とも思われた。
戦時は軍需産業を担い、そのため大きな空襲も受けている室蘭。
いまからおよそ400年前に松前藩がここに入り、アイヌと幕府の交易がおこなわれるようになったことから、苦難の歴史ははじまった。当初は公平だった取り引きも、やがてアイヌが一方的に搾取されるものに変わっていき、アイヌの人びとは苦しめられる。蝦夷地のあちこちで、同様のことが起こっていた。
1854年にペリーの艦隊が、このあたりにやってきて、外敵への警戒感が強まってくると、幕府の出先機関としての陣屋が置かれ、明治に入ってほどなくして、旧仙台藩角田村の領主・石川邦光の重臣、添田竜吉とその弟・泉麟太郎らが移住してきた。
移住組一行は、とりあえず掘っ建て小屋を建てて、翌日から懸命に荒れた土地を耕すが、重労働の甲斐なく、作物は実らず、苦しい暮らしがつづく。
山へ出かけて狩りをして、獲物の肉で食いつなぎ、獲れた毛皮は函館へ売りに行った。
やがてファミリーが増えてくると、もっと広い農地のとれる地域へ移動する。現在の夕張郡栗山町付近、その一帯が一国の中心地となることが決まった。
道づくりに多くの労働者が集められたが、劣悪な条件でこき使われた彼らは暴動を起こすこともしばしばで、寒さと飢えと過酷な労働によって、肉体のみならず精神を病む人、酔っ払いが続出、ケンカや揉め事が絶えなかった。
明治政府の屯田兵政策(1984・明治7-1904・明治37年)で、鳥取・愛媛・兵庫県などから室蘭に連れて来られ、農耕地として悪条件なこの土地に入植しなければならなかった人びともまた、たいへんな苦労を強いられた。早朝三時半や四時に起床し、一日中働かされ、食事は芋ばかり・・・それでも、荒れた環境のなかで人びとは道をつくり、畑をたがやし、町をつくっていき――とあれこれがんばっているうち、この地に転機がやってくる。
北海道炭鉱(コウの字、旧字)鉄道会社(以下北炭)が石炭積出しをおこなうための鉄道がむすばれると、室蘭港が特別輸出港に指定された。
石炭が輸出できるようになり、輸出港として太平洋の玄関口となった室蘭は脚光を浴びる(1894年・明治27年)。
ちょうどこの年に、作家の葉山嘉樹(1894-1945)が生まれている。
葉山は室蘭‐横浜船の乗組員であった経験をもとに、『海に生くる人々』という小説を書いた。私は訪れていないのだが、彼の文学碑がこの地に置かれているという。葉山の出身は福岡県だが、代表作にちなんだ場所である。
葉山嘉樹の半生を、ざっと辿ってみよう(下記文献、参考)。中学を卒業後に上京、早稲田大学予科文科に入ったが、父からもらった学費400円を2,3カ月で全額浪費。まもなく学費未納で除籍され中退、海員生活に入った。これによって『海に生くる人々』ふくめいわゆる<マドロスもの>と云われる作品群がのちに生み出されるというのだが、乗組員をずっとやっていたわけではなかったらしい。乗船したのは、はたち頃にカルカッタ航路が一度(見習い水夫で無給)、室蘭-横浜間は22歳ごろ(三等セーラー)で、足を負傷して下船している。
セーラーをやめてからは郷里に帰り、鉄道員の臨時雇いを経て明治専門学校(現・九州工大)で、図書関係の仕事に就く。この機会にドストエフスキー、ゴーリキー、トルストイなどを耽読。海の向うではロシア革命(二月・十月革命)が起こっていた。
26歳、妻となる喜和子と名古屋へ。セメント工の職を得るが、同僚の死をきっかけに労働組合を結成しようとして解雇される。新聞記者、夜店の古本商などの職を転々とするうち、各地の労働争議にかかわるようになり、ついに投獄。
28歳で初服役。29歳で再逮捕(治安警察法違反・名古屋共産党事件)、獄を出たり入ったりしながら差し入れ本を次々と読破、のちの世に出る原稿も獄中で執筆した。
「書く人」になるのは投獄か大病だねぇと云われたことがある、私自身の転機も、そうであった。
海員をやめた直後から構想が練られ、名古屋の千種刑務所で執筆された「海に生くる人々」は、いったん保釈になった大正十二年(1923)の秋、友人のすすめで土木出張所の仕事に長野県木曽谷へ行くことになったとき、友人に託された。この年、関東大震災。多くの朝鮮人、社会主義者とともに、アナーキスト大杉栄が殺害される。原稿はのちに堺利彦の手にわたった・・・とされるが、それにはもうしばらく時間がかかるようだ。
保釈されても労働運動を続行、投獄されて、また書いた。
30歳、巣鴨刑務所に七カ月服役。
葉山が刑務所に入っている間に、妻の喜和子が若い男?と失踪。
彼女は葉山が獄中で書いた原稿を持ってあちこちへ売り込みに廻ってそのたびに断られるという、作家葉山を支えていた人物でもあったというのに。
そして息子二人の死。
刑期を終えて木曽の労働に戻った彼が一躍脚光を浴びることになるのは、この失意のどん底のあとだ。
<つづく>
参考資料:室蘭市・室蘭市史 第二章 室蘭市の歴史 より
参考文献:『北海道の歴史散歩』
中央公論社版『日本の文学』第39巻(昭和45年3月、解説 小田切進)
『葉山嘉樹短篇集』道籏泰三編(岩波文庫)
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