前回、羅針盤のところで鄭和の名を出した。
生涯に七度もの大航海を成し遂げたと言われる鄭和だが、少年時代に性器を切り取られるという過酷な体験をしていた。
手術は、麻酔なしでおこなわれた。
腹と太ももを押さえつけられ、性器を縛られ、そのまんまチョキンと切られる。
どれほどの激痛であったであろう。傷が癒えるまで三カ月はかかったという。
患部は膿みやすく、抗生剤などもなかった時代に、感染症にかかって命を落とす者も多かった。宦官の手術を受けて生き残る者は全体のおよそ三割くらいだったという。
参考文献によれば、宦官になるための手術は、性的に未熟なうちに受けるのがよいとされ、主に8歳~12歳の少年たちだった。そんな子どもに過酷な試練・・・おそらく後遺症にも長く煩わされたにちがいない。
私も大きな手術を何度か経験しているが、身体にメスを入れたり、激痛があると、その部位だけでなく全身がおかしくなるものだ。
私は大腿骨頸部骨折のときの痛みから、歯の骨が出てしまった。
口内の異変に気付いたのは、手術もリハビリも終わったあとだった。麻酔をはじめすべてにおいて恵まれた現代医療を受けたはずだが、それでもいっときは激しい身体的・精神的苦痛によって、歯をくいしばっていたのだと思う。
ましてや麻酔も薬もない時代に、少年が痛みに耐え、その後の試練に耐えた。それを考えると、気が遠くなる。心身に大きな欠落と痛みの後遺症を抱えて何カ月も船に乗って海をわたるなどした鄭和を、ほんとうに逞しい人だと思う。
大事を成し遂げた人物であるにもかかわらず、おそらく宦官であったため、鄭和についての資料は少ないのだそうで、しかしそんななかでいくつかの名著が生み出されている。その一つ、寺田隆信氏の『鄭和』を参考に紹介していこう。
1371年、鄭和は雲南省の馬家に生まれた(とされている。真実はわからない)。
この地方のイスラム教徒は「マホメット」の「マ」音に「馬」字を充てた(マーさん)姓がほとんどだった。
鄭和が生まれたころはすでに明が起こっていたが、雲南地方はまだ前王朝(元)の支配下にあった。鄭和が10歳のころ、明の征服軍が攻めてきて戦乱となり、この地方の人びとの生活は一変した。鄭和の馬家では大黒柱である父もこの時期に亡くして、一家は困窮した。
そして12歳になった鄭和は明軍に捉えられ、南京へ連れて行かれ、宦官にされたようだ。征服された地域の人びとは、宦官にされる。それが古くからのしきたりであった。
その後、北京へ送られて、鄭和は「燕王」の目にとまることになる。「燕」とは現在の北京あたりで、その地域をおさめていたので「燕王」。のちの永楽帝だ。鄭和に「鄭和」という名を授けたのも彼である。
その燕王→永楽帝(名は朱棣)は、明の全盛期をつくった洪武帝(朱元璋)の四男で、燕王として北京付近を治めていたが、洪武帝の死後の後継者争いで勝利、1402年に即位した。廟号は「成祖」、北京に都を移し、1424年に65年の生涯を閉じるまで、明帝国のトップに君臨する。
中国の王朝政治では漢や唐の時代から宦官を重用していたが、皇帝の身の回りを世話するだけの宦官が、しだいに政治力をつけていき、しまいには王朝をほろぼすほどの権力を持ってしまう・・・いわゆる「君側の奸」(君側=主君の側近、奸=謀反の心を持つもの)だということが、過去の時代を通じてあったため、為政者たちは宦官を大事にする一方で、その存在に警戒した。しかし鄭和は、時の皇帝に引き立てられる。
永楽帝は諸外国への関心が高く、1405年(永楽三)6月15日、鄭和に出使の命をくだす。
その年の晩秋、鄭和は62隻(27800余名の乗組員)という世界最大の船隊をひきいて、蘇州の港を出航した。鄭和の出航からおよそ100年後の、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわったときの船団はわずか3隻だったというから、鄭和がいかに大船団で船出したかがうかがえる。
まずチャンバ(占城、ベトナム中部から南部におこっていた国家・チャンパ王国の首都)へ、そこからボルネオ島の西を通って南下してジャワ(15世紀のはじめごろはマジャパヒト王朝)へ、およそ二十日かけて向かった。
<つづく>
参考文献
『ハレム 女官と宦官たちの世界』小笠原弘幸 新潮選書
『港町と海域世界』(シリーズ 港町の世界史①)歴史学研究所編 責任編集=村井章介 青木書店
『鄭和 中国とイスラム世界を結んだ航海者』寺田隆信 清水書院
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