第72回マラッカ王国のナゾ(4)マラッカ海峡のイスラム王国たち

14世紀の初めまで小さな漁村にすぎなかったマラッカに、パレンバンを追われ、シンガポールでシャムの攻撃を受けたパワメスラワという王が逃げてきた。先の回でもふれたように、それがマラッカ王国のはじまりであったという。

1400年ごろに明から何度か使節(主に鄭和の艦隊)がやってきて、それに応じたマラッカは、明に王国としてのお墨付きをもらった。注1

パワメスワラは永楽帝に気に入られようと、朝貢国として忠実に明を訪問した。

二代目イスカンダル・シャー、三代目のモハメッド・シャーも、それにつづいた。

 

建国のおよそ十年後にイスラム教徒の新しい王(ムガット・イスカンダル・シャー)が誕生すると、「神の前ではみな平等」のムスリム用に貿易港としてのいろんな制度が整備され、世界じゅうからさまざまな民族のムスリム商人が、商売のしやすくなったマラッカへ、わらわらと集まってきた。親分国家(明)に気に入られ、近隣国家の侵攻(主にアユタヤ注2)からも守られていたマラッカは、1511年にポルトガルに襲撃されるまで、アジアにおける海上貿易の国際都市として発展した。

つまりマラッカ王国はおよそ100年間、あったということになる。

このあとに訪れるのが、大航海時代だ。

マラッカ海峡をとりまく小さな交易国家はつぶされていき、マレー半島からインドネシア一帯が、植民地化され、帝国の搾取のシステムに呑み込まれていく。

 

やがてオランダとイギリスの東インド会社が登場すると、その流れは加速する。

桃木至朗氏の本(参考文献①)を参考に、そのあたりをたどってみよう。ちなみに桃木先生は、前出のゆうせいさん(第71回)の勤めていた阪大におられた教授だ。ゆうせいさんはこの先生ともお酒を呑み交わしたのだろうか・・・まあその話はいったん置いて、インドのゴアに拠点を置いてマラッカを占領したポルトガルは、モルッカ諸島やマカオにも勢力を広げる。わが国の長崎へ、彼らがやってきたのもこの時期である。

スペインはフィリピン群島(南部をのぞく)を、オランダ東インド会社はいまのインドネシアを支配。オランダとの競争とやぶれたイギリス東インド会社はインド経営へ。

しかしじっさいにヨーロッパ勢がこの地域の交易を独占できるようになるまでには、ここから100年くらいかかる。交易ルートのポイント地点の随所にあるマラッカ王国以降のイスラム小国家たちが、かれらの前に立ちはだかっていたのである。

マラッカ海峡のシンガポール側出口をおさえるジョホール、スマトラ島の最北端にあり、インド側の出口を握っていたアチェ、西ジャワでスンダ海峡をおさえるバンテン、南スラウェシのマカッサル、ボルネオ島のブルネイ、中部ジャワ王朝のマタラム、ミンダナオ島のマギンダナオなどイスラム王国の面々だった。

そもそもこの地域のインドイスラム化は13世紀ごろから始まっていたが、それを決定づけた存在が、マラッカ王国だったということのようだ。街の中心にモスクが置かれ、一時的な来航者の貿易商人たちもそこで礼拝ができた。外敵の侵入を拒む外壁も、ほとんどたいしたものがなかった(参考文献②)「神の前ではみな平等」のイスラム民によって築かれた交易国家に、壁など必要なかったのである。なものだから、1511年に爆弾をもって襲ってきたポルトガルに、マラッカはどれほどおどろいたことだろう。

<つづく>

注1 1403年、明の永楽帝が派遣した内官尹慶がこの王国を訪れたのち、永楽帝がパラメスワラをマラッカ王国に封じ印璽いんじを与えた(参考『新イスラム事典』中原道子)
注2 1351年~1767年、現タイ中部に展開したタイ族の王朝

参考文献
① 『歴史世界としての東南アジア』桃木至朗 山川出版社刊
②『港町と海域世界』(歴史学研究所編 責任編集=村井章介 青木書店刊)収録の「東南アジアのイスラーム港市と磁器貿易」坂井 隆 著

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