講義タイトルは、「編集の現場」になった。
「編集の現場」をお伝えしながら、「本の一生」をたどるという、自分なりの裏テーマを、私は掲げた。本の廃棄工場から出発して、本の倉庫や印刷所などをめぐり、グルグルっと「本の一生」を追いかけ、学生たちとかかわりながら考えたことを、あとで本にまとめようと考えていたのである。のちに『ミルコの出版グルグル講義』(河出書房新社)として出版されるその本が、当初のテーマのとおりになったかどうかは置いて、話を戻そう。いよいよ私の講義が本決まりになったところで、宮﨑教授から指示が飛んできた。
「シラバスの提出をお願いします」
「はい?」
私はシラバスを知らなかった。
授業プランのことだが、それを大学のウェブサイトにつなぐのでパソコンで作製せよという。
私はパソコンが苦手だった。それを宮﨑教授に打ち明けると、
「会社にいたときはどうしていたんですか?」と訝られた。
そういえば私、どうしていたんだろ・・・?
思い返せばパソコンが得意な制作部のたけちゃんや、目の前に座っていた秘書的業務の女性にいつもサポートしてもらっていたのである。その話をしたら、「会社でずいぶん偉かったんですねえ」と嫌味とも取れなくない返答で、しきりに感心された。
このまま「パソコンできません」では済まされないと思った。
講義開始の春まであと二カ月、というところで私はパソコンを習いに行くことを決めた。
クルマで10分ほど走ったところにケーズデンキがあり、そのなかにある「ひよこパソコン教室」に通った。
若いお姉さんが、テキストのマニュアルに沿って、やさしく教えてくれた。
いちばん最初に、パソコンでカンタンな絵を描かされた。その後、「ワードの使いかた」などを習った。
使ってみると、パソコンは便利だった。
大学で教える話がなければ「ひよこパソコン教室」に通うこともなかったと思うが、いま振り返るとこれは大きな転機であったと思う。
私は長い文章を書けるようになったのだ。
「え?それまでどうやっていたの?」とよく聞かれる。それまではiPadで原稿を書いていた。会社ではMacを支給されていたが退社とともに返却したので、パソコンを持っていなかった。だから一度に短い文章しか私は書けなかったのだ。その話を人にすると、あきれられる。
最初に出した本・闘病記『毛のない生活』(ミシマ社)のころから、拙稿は文章がたんたんと短く、「読みやすい」と言ってもらえることもあるのだが、それはiPadで書いていたことと関係していたかもしれない。
とにかくいろんな意味で、大学で先生をやることになって、私は変わった。なにかと世間知らずであったことも判明した。私に子どもはいないが、いたらこれくらいかも・・・という世代の若者たちと、毎週のように会い、交流したことも、面白かった。
<つづく>
*当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。