芹澤君の家では、巣立っていった娘の部屋が空いていた。
そこを使わせてもらう。
部屋に入ると、ベッドがあるのに、その真横にマットレスも敷かれている。
「寝心地のいいほうを使ってね」
と、ホストマザーのあっちゃん。
「じゃあ、おやすみ」。
一人になって、部屋の壁を眺めやる。
ミュージシャンを目指して東京へ行った娘の幼少時の写真、そして彼女がジャズスクールに通っていた頃に所属していたバンドのポスターが飾ってある。
私は彼女に代わって彼らの娘になったように、この家に護られて深く眠った。
朝起きて2階の部屋からリビングのある1階へ降りると、芹澤君はもう仕事に出掛けており、あっちゃんが「おはよう」と迎えてくれた。
玄米ごはんにひまわり油と塩麹をかけたもの、そして野菜がふんだんに入ったお味噌汁、の朝食をいただいてから、庭に出てお茶を飲もうということになった。
私の持参した、ロシアのブラックティー(ロシア語でチョールヌィ・チャイ=黒茶)だ。
庭に出ると濃い緑がぐるり迫ってきた。
ここ一帯の住宅は、一軒一軒のあいだの距離がたっぷり取られており、その広大な敷地を緑が覆っている。冬になれば一面、白くなる。
この家は敷地の真ん中にあるが、すぐそばの土地が空いていて、家が建っていない。そのため、じっさいの庭以上に広々としているのだ。
見晴らしのよいその場所に、よく手入れされた花々と、ほどよく放っておかれた木々と草たちは、朝の光を存分に浴びて、勢いよく天へ向かって延びている。
庭に置いてあるベンチに二人で腰かけて、ゆっくりと朝のお茶をすすった。
ロシアのダーチャでもベンチで過ごしたが、ここはロシアより虫が少ない。
お茶のあと、私たちはでかけることにしていた。
天然温泉に入って、そのあと、うどんを食べに行く予定。
用意をしてクルマに乗り込むと、「ショウちゃんちに寄るね」とあっちゃんは言った。
「ショウちゃん」と呼ばれたその人の家は、同じ区画内にあり、すぐに着いた。
ショウちゃん、そして奥さんのハルさんが迎えてくださった。
60代のご夫婦で、以前は東京近郊で暮らしていたが、子育てを終え、ご両親を見送って、北海道移住を決めたのだそう。
きれいな部屋に招き入れられ、私たちはハルさん手作りの梅ジュースをいただきながら、しばし歓談した。
窓から庭を拝見すると、ピザの焼き窯が見えた。ショウちゃんの手作りだそうである。
ユニークなかたちのそれを、優しい色の花や木々が取り囲んでいる。家の中も外も、隅々まで手入れされており、どこもかしこも美しい。
「ガーデニングは、山野草がいちばんだと思うのよね」
ハルさんはそう言った。
ガーデニングは英国風が人気であるけれど、ここは日本なのだから日本の花が似合うよねという話になった。赤や黄色の鮮やかなイングリッシュ・ガーデンはきれいだけれど、ここではもっとふつうの植物でいいと。
「ミルコさん、かぁ~」
ひとしきりトークしたところで、ショウちゃんがふと、私に話題を振った。
「ミルコといえば、そういえばこっちに地名であるよ、似た名前。<ミルト>っていうんだけどね・・・」
本日の客人である私の名前のことを、言っている。
ミルコとミルト?
そのひとことが、運命的に私を刺激した。
「あっ、あの・・・ミルトってどこですか!?」
それまで控えめに梅ジュースをすすりながらみんなの話を聞いていた私がやおら乗り出し、居住まいを正して訊ねたものだから、ショウちゃんはちょっとびくんとする。
「え? あ、ああ・・・夕張方面にね、あるんですよ。ミルトという所が」
「近いんですか? ここから行けます?」
と、畳みかける私。
「行けますよ。車で一時間くらいかなぁ」
自分とそっくりな名前の地・ミルトへ、私はどうしても行きたくなった。
その名をきいたからには、いますぐにでもかの地に立ちたい。
「よし、うどんと温泉は延期、ミルトへ行こう!」
私はあっちゃんと顔を見合わせて、急きょ「おいとまします」と席を立ち、それまでゆったり流れていたショウちゃんちの空気を一気に変えた。
ショウちゃんとハルさんは地図を手にミルトへの道を示して、美しい玄関から私たちを送り出した。
<つづく>
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