第50回ダーチャに泊まる⑤

私が目覚めて二時間経ったが、イリーナはまだ起きてこない。
私は大きなカップでチャイを(日本では飲まないミルクを入れて)たっぷり飲んで、出国前に私をインタビューしてくれた雑誌の担当者に手紙を書いた。
イリーナの猫、クリスが何度か私の顔を見に近寄って来た。
「イリーナ、まだ起きてこないね~」と言っているようだ。

鳥が鳴いている。そして虫が飛んでいる。それら以外の音がしない。
空気はよく澄んで、空には濃い青が広がっていた。
緑の匂いを嗅ぎながら、深く眠った朝は、お腹が減っているようで減っていない。

多くのロシア人がこうしたロシア式別荘で、週末を過ごしているのだと知ってはいたものの、思いがけずここで滞在できたのは幸運だった。私がチタへ来たのはイリーナに会うためで、ダーチャ体験が目的ではなかったのである。

街で働き、金曜日の夕方に郊外へ、一家ごと別荘へ移動する。猫も連れていく。
道中のスーパーで買うものはビールとクヴァス(コーラのような炭酸飲料)とマラコー(牛乳)。あとは全部ダーチャにある。都会で働かず、ダーチャに住みっぱなしの人は牛も飼っていたりするのでその場合はマラコーもある。蜂を育てている人もいる。

魚は近くの川で釣る。野菜はダーチャの畑から採る。菜っ葉や人参、トマトなど日本の家庭菜園にもありそうなものをプロ農家に近い規模で作っている。ジャガイモは冬の分も作る。そうして厳しい冬に備える。

だいぶ陽が高くなった頃、ようやくイリーナが起きてきて、朝ごはんとなった。
昨日は息子たちが来て、はりきって疲れてしまっていたのかもしれない。
クリスも朝ごはんをもらい、私には肉なしのピロシキを温めてくれて、カッテージチーズと一緒に頂いた。

食後にイリーナがお皿を洗う様子を、じっと観察。
湖から汲んできた水を、大きな壺に貯めてある。
そこから洗面器に少しだけ汲んで、さらにほんの少しだけ洗剤を入れる。
その洗剤はロシア製のエコロジカル洗剤で、使用後に土に蒔いてもいいものらしい。そこへ使用後の食器を浸けて、手でキュッキュとこすり、そのうちのいくつかには重曹(炭酸ソーダ)を着けて、さらにキュッキュとやる。
洗面器の水をいったん捨てて、新しい水を入れなおし、ゆすぐ。
キッチンペーパーのようなもので軽く水をふき取ったあとは、自然乾燥。
そうした一連の作業で、使った水の量はじつに少ない。
私は日本の各ご家庭での食器洗いにおける水と洗剤の使用量に思いを馳せた。
あれは絶対に多すぎると思う。ダーチャで過ごすロシア人は、自然に返せる分しか、使っていない。
私たち日本人だって、水と緑の恵まれた国土に生きている。しかしその豊かさにあぐらをかいて、無駄にしてはいまいか?
世界が危機に見舞われた時、自然の恵みを大切にしてきた国と、そうできなかった国、それぞれの救われ方に大きな差が出ることになるだろう、そう思われてならない。

カンカン日が照っているというのに、イリーナは畑に出突っ張りだ。
もくもくと、畑作業を続けている。
裸足で、土の上に立ち、右手に鎌を持って作物を収穫したり、雑草を抜いたりしている。ずーっとやっている。飽きずに、やっている。ちっとも疲れを見せない。水着のような格好で、陽の光を全身に浴びている。
「疲れない?」と訊いても、「ニチェボー」。一日中やっていても疲れないのだそうだ。おそらく子供の頃から毎週末、ご両親に連れられてダーチャに来たに違いない。
子供の頃からそうやって過ごしてきているから、すっかり身についているのだろう。
畑に入ることは、彼らにとって当たり前のことなのだ。

午後イリーナは畑の手入れに没頭し続け、その間私は与えられた部屋にこもり、原稿の手直しをした。編集者が鉛筆を入れてくれた、まだゲラになる前の紙の束を、抱きしめるようにして持ってきていた。
ゆっくりと午後が過ぎていき、夕方になってワロージャがやってきた。
イリーナはタラのような魚を料理し始めたが、魚の匂いを嗅ぎつけて、蝿がいっせいに集まってきた。彼らの鼻はものすごく利くのである。
魚がテーブルに載るまでは全然部屋に入ってこなかったのに、あっという間に部屋が蠅でいっぱいになった。

畑仕事に一区切りついたところで、イリーナとワロージャはプールの準備を始めた。
ダーチャの敷地内の中ほどに、大きなプールを置いている。どのダーチャにもあるとは限らないものだと思うが、ロシア人は泳ぐのが好きだ。水があればどこでも飛び込んでしまう。そうして短い夏を存分に味わっている。

ワロージャは大きな網を持ってプールに入り、水に浮かんだ虫の死骸を掬っていた。
掬っても掬っても死骸が減らないようで、その作業にワロージャが追われる一方で、イリーナは虫たちの死骸を気にせず、もう水に潜っている。
大きな体の二人が、プールの中で動き回っている姿を、プールの外から私は眺めていた。私には、二人が大きなシロクマに見えてくる。

彼らはひとしきり泳いだ後、今度は畑の作物たちに水を浴びせはじめた。
個々にホースを持って、勢いよく水を緑に向かって放っている。
陽の光を目いっぱい受けたあとの、水浴び。いちだんと緑が輝いて見えた。
その美しい光景は私の瞳に焼き付いて、時間がたってもなかなか脳裡から離れなかった。

ダーチャの本

<つづく>

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