第41回50歳からロシア語を学ぶ②

大学を卒業して四半世紀たっている。「おばさん」と呼ばれる年頃になって久しく、私は「お母さん」にはならなかったけれど、よのなかの多くの「おばさん」や「お母さん」は子育てをしたり家事をしたり、人によってはお勤めに出たりと忙しく、学校に通っている、という話はあまり聞かない。

先生がいて生徒がいる、そんな場所へ定期的に行くのが、新鮮だった。
そういえば高校生のころ、「そろばん教室」に通ったことを思い出した。私以外の生徒は全員、小学生だった。
なぜ高校でそろばんなのか、というと私の通っていた高校――専修大学松戸高校には当時どうしたことか「簿記・珠算」の科目があった。「専大」とかんむりがついているとおり専修大学への推薦制度が設けられていたが、私の狙っていた「英文科」への入学は狭き門で、「簿記・珠算」の成績も上げなければ推薦がかなわなかったのである。
算数は前から苦手だったが、「そろばん教室」にはまじめに通った。指を使って積み上げる感触も、珠の弾ける音も、好きだった。そして高校三年生で「珠算検定3級」を取得した。通信簿の「評定平均」とやらも上がって、希望どおりの「英文科」に入った。

JIC旅行センターのロシア語教室に集まったメンバーのなかには、私より年上らしき人もいた。小さな女の子もいた。あとできくと彼女はもうじきバレエ留学をするので、渡航前にロシア語をちょっとかじりに来たらしい。その女の子と私以外は男性で、彼らがなんの仕事をしているのかは不明だが、ロシアに興味があるくらいだからきっと話をすれば面白い人たちにちがいない――と思い、じっさい毎週彼らと付き合っていくうち、そのとおりだったことがわかる。

「入門」コース担当のエレーナ・ヴィソーチナ先生は、目のぱっちりとしたふくよかな女性だった。茶色の髪はゆるやかにカールして、とても声がいい。わかりやすいロシア語を交えながら、上手な日本語で穏やかに授業を進めてくれた。
日本語でもロシア語でも、彼女の発音はアナウンサーのように美しい。ウラジオストク出身で日本に住んで数十年、大きな息子さんがいると言っていた。だんなさんはNHKラジオ講座にも出演している著名な先生、オレグ・ヴィソーチンさん。ご夫婦でベテランのロシア語教師だったのである。

エレーナ先生は、ロシアの子どもたちが使う教科書を、テキストに使った。
楽しいイラストの入ったそれと、先生の感じのよさに、楽しく勉強できそうな気がした。
私の場合、ロシア語の「音」にはもともと、なじみがあった。
父がロシア語をやっていた話は先の章にも書いているが、ラジオ短波のロシア語放送を父がいつも聴いていたので、耳は慣れていた。
ところが文字に、てこずった。ぜんぜん読めない。中高大と学んできた英文と同じ姿をしている文字はあっても違う文字・・・たとえばエイチHはエヌで、ピーPはアールだったりするこのキリル文字というものに、なかなか慣れなかった。さらに、動詞だけでなく名詞までする、いわゆる「変化」が著しい。

ウデヘの村へ一緒に行った活動家の野口栄一郎さん(第4回「毛のないクロテン」参照)は、あのときすでにエコツーリズムの通訳として活躍されていたのだが、スーツケースの中に参考書を入れて旅行中も勉強を続けていた。彼は「十年経ってもロシア語はむずかしい」と言っていたし、ロシア文学研究者の高柳聡子さんは、「ロシア語を始めて最初の十年は、ロシア語のことしか考えていなかったナ・・・」と遠くを見ながらしみじみ言っていた。
「ああ、やっぱりロシア語ってたいへんなのだ・・・」
ロシア語を話す友人知人の言葉が、あれこれ思い出された。
彼らの話からとにかく「まず十年」だなと思い、「石の上にも三年」を3~4回繰り返す、のつもりでふんばることにした。

授業の前日には毎回、父に付き合ってもらって必ず予習した。
「50年前の知識やで」
と言いながら、八十近い父は商社マン時代につちかったロシア語を、中年の娘に教えた。
ロシア語学習の奥深さに、わたしはなんどもめげそうになりながら、JIC旅行センターの教室には丸2年通った。出来の悪い生徒を辛抱づよく教えてくださったエレーナ先生と、教室の仲間たちには感謝している。
ほんとうはまだまだ続けたかったのだが、いったん教室をやめたのは、「先生になる」という話が私自身に、持ちあがったからだった。ロシア語学習のスタートからちょうど三度目の春から、とある大学で「編集」を教えることになった。
非常勤講師、というやつである。

<つづく>

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