第36回初めてのウラジオストク

シベリア鉄道の終点ウラジオストク駅にぶじ到着したものの、私はフラフラだった。
駅に着いたのが早朝で、迎えにきてくれたガイドさんとクルマでホテルへ向かったが、その間どんどん具合が悪くなっていった。全身ゾクゾクしたのは幽霊さんのせいだけではなかったようだ。
ホテル・プリモーリエ(プリモーリエはこの地域を指す「沿海地方」の意)という、三ツ星ホテルのレストランで朝食を摂るにも、私はコーヒーをすすってパンをちょこっと齧るくらいしかできなかった。
目前のT君のお皿にはスクランブルエッグとソーセージが山盛りで、おいしそう食べる彼をぼんやり眺めるうち、その姿も霞んで見えるようになった。熱が上がっていたのだと思う。

あ~あ、こんなんなっちゃって・・・情けない。せっかくの旅行が台無しである。
というのも、私はウラジオストク訪問を楽しみにしていた。
それはこの町がなぞめいていたから。ふしぎと日本人の郷愁を誘うように感じられるのはなんでなんだろう?

坂道の多いことから「東洋のサンフランシスコ」などとガイドブックでは紹介されているけれど、ソ連が崩壊して1992年に開かれるまで、ここは外国人が立ち入ることのできない場所だった。

アヘンで滅多打ちにされた清国が立ち直れないタイミングで、二度の条約(1858年アイグン条約、1860年北京条約)を取り付け、念願の不凍港(1~2月を除けば実質的に凍らない)をふくむ広大な土地(沿海地方)を手に入れたロシアは、この地の南端をロシア艦隊の拠点にした(1871年)。「ウラジオストク」の名は、ブラジッチ(支配する、統治する)と、ボストーク(東)の語が合わさったもので、「東方を支配せよ」という意味である。
これと同じような成り立ちの名前がロシアにはもう一つあって、ウラジカフカスという北オセチア共和国の首都だが、やはり意味は「カフカスを支配せよ」。こっちは西の端で、ウラジオストクは東の端。西へ東へと大きく両手を広げたような領土拡大が、19世紀末のロシア帝国に起こっていた。

そんなわけで、長年閉ざされていたウラジオストク。
しかし閉ざされるもっと前には、多くの日本人が訪れている。
19世紀末から建設が始まったシベリア鉄道の東の起点でもあるこの町は、日本人がヨーロッパへ行くための交通の要所であり、明治・大正時代にはたくさんの日本人が移住した。

調べて行くと、九州地方・長崎との濃い関係が浮かび上がってくる。
鎖国時代から外国船を入港させていた長崎港は、前からロシアと付き合いがあったのであるが、ウラジオストクがロシア艦隊の町となって、人の行き来が増えた。
ロシア人のおもてなしをしていたのは主に、長崎港の対岸にある「稲佐村」というところだった。造船所があり、船のメンテナンスで立ち寄るとともに毎年お金を落としてくれるロシア艦隊に対して、住民たちは好意的で、彼ら専用のさまざまな施設――レストランや遊郭が作られて繁栄したと言われている。その後ロシア艦隊は旅順に拠点を移すが、現在も稲佐にはいくつかのロシア史跡が残っているらしい。
編集者時代には何度か長崎へ・・・美穂ちゃん(中山美穂さん)やマッキー(槇原敬之さん)のライブ取材で訪れていたが、そのころの私はまだクロテン研究に目覚めていなかったので、そんなことちっとも知らなかった。
作家の鈴木光司さんの船で壱岐・対馬へ行ったときにも、長崎へ立ち寄った。東京へ戻る飛行機に乗るまで時間があったので、タクシーの運転手さんの案内で、平和公園や市内のあちこちを観光した。
小柄でとても痩せた運転手さんだった。後ろの座席から見ると姿が隠れてしまうほど小さくて、真っ白の開襟シャツから伸びた細い腕が握るハンドルはとても大きく見えた。そんな彼のドライビングはすばしっこく、いくつもの切り立った山道を、鮮やかなハンドルさばきでスイスイと昇り降りした。長崎の印象より、おじさんの印象が私には強かったので、そのときのタクシーの領収書を何年も、私は持ち続けていた。
「次に長崎でタクシーに乗るときはかならず、このおじさんに連絡をしよう」
印字が薄くなり、紙がボロボロになっても手帳に挟んでおいたのに、ついぞ連絡することなく私は会社をやめ、長崎へ行く用事のないまま、現在に至る。

話を戻すと、ウラジオストクに降り立った私は風邪をひき、観光はままならない状態だった。そのうえ、気温はハバロフスクより低かった。それでもT君が一緒だったので、ガイドさんは私たちにひととおり市内を案内した。私も町を知りたかったのでムリをした。
朦朧として訪れた場所のなかで、おぼえているのは「浦塩本願寺跡」だけである。
かつてこの町を「浦塩」と呼び親しみ、ここに居留地を形成していた信心深い日本人たちがいたことを示す、跡地だった。

ウラジオストク空港

<つづく>

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