「博物館のほかにもあちこち観光した」
と言いたいところだが、このときの私はハバロフスクでの多くの時間を、カフェなどでじっと過ごした。いっぽう、寒さに強いT君――ハワイ島でも山上で天体観測していた――は、巨大コートを着て街中へ繰り出し、書店などをまわったという。
ハバロフスクの休日をそれぞれ楽しんだ私たちは夕方に合流し、ハバロフスク駅で列車を待った。シベリア鉄道に、乗る。
駅の中にフードコートがあり、そこでビールを飲んでおしゃべりをするうち、時間となった。ハバロフスクのガイドさんとはそこでお別れをして、T君と二人、寝台列車に乗り込んだ。
車両は二段ベッドが二つ置かれた小部屋になっており、私たちの部屋には一人で乗ってきた若い女性が加わった。彼女はウラジオストク在住で、ハバロフスクで仕事をして、これから家に帰るのだという。シベリア鉄道で通勤? いや、こういう日もあるのだろう。
自分のベッドに荷物を拡げ、一息ついたところで、あたたかい紅茶が運ばれてきた。
ガラスのマグカップにお湯が注がれただけの、かんたんな飲み物がほんとうにありがたかった。
ベッドに腰掛け、冷えた身にしみわたるそれをすすりながら、以前、オリエント急行に乗ったことを思い出した。オーストラリアのケアンズからゴールドコーストまで、廃線になる最後の列車のお客さんとして、それに乗るという企画だった。
旅の友は作家の秘書さんで、旅慣れている彼女の誘いで出かけたのだが、私にとっては初めての列車の旅――寝ているあいだも車両は揺れるし轟音は響いてくるし、部屋は狭く・・・(だいたい私は狭い場所が好きではないし、乗り物にも酔いやすい)元気を失くしていると、旅友は私に向かって「立って半畳、寝て一畳」と言った。昔の人はそれでがんばっていたものだ、という話だったと思う。
今回もシベリア鉄道に乗って、「立って半畳、寝て一畳」のフレーズがたびたび浮かび、これも修行だと思うようにした。
「食堂車があるから行ってみたら?」と相部屋の女の子が教えてくれたので、行くことにした。
食堂車へたどり着くまでに、いくつかの車両を渡り歩かねばならなかった。
揺れる細い通路を、T君とタテになって、その高い背中に続いてヨロヨロと進む。
こんなとき、T君が一緒で心強く、彼がいてくれてほんとうによかったとしみじみ感謝した。
夫婦でも恋人でも兄妹でもない私たちが、「厳寒のロシアへ」という一点で結ばれ、平和条約のない国を鉄道で移動している。自分に必要な体験の前には、ちゃんとこういう人が登場するのだから「やっぱり神様はいる」とあらためて思えた。
車両と車両の連結部分を通るたび、下を向くと地面と線路が見えた。コワイ。列車が勢いよく走っていることがよくわかる。顔を上げると外は一面真っ白の雪に覆われたタイガ。
私はまたシベリア抑留者のことを考えていた。
移送の途中に列車から飛び降りて逃げ出した人たちもいたのである。当時のスピードがいまより遅かったとしても、怪我なく脱出するなどムリである。仮に脱出できたとしてもあたりにはなんにもない、人家はまったくない、食糧もない、道もない、場所によっては気温がマイナス数十度・・・逃亡しようにも生きるか死ぬか、イチかバチか・・・の世界である。
そんなことに思いをはせつつ、ヨチヨチ歩くうち、食堂車両に着いた。
一両まるごとレストランになっていて、細長くテーブルと椅子が並んでいる。
T君と私は向かい合って座り、私たち以外にお客さんは一組・・・男性二人だけ、であった。ヒマなはずなのに、なかなか注文を取りに来ない。それはハバロフスクのレストランで経験済みだったので、いまさらアタマにこないが、それにしても遅すぎる。ようはロシア語を話せない外国人を、まったく相手にしていないのである。
私たちは彼女に「ジェーブシカ」(девушка「お嬢さん」の意)と声をかけるべきだった。私たちがそれをやらないので、いつまでも来ない。「ジェーブシカ」は、女性の店員に対して声をかけるときの決まり文句だし、ワインは「ビノー」、赤ワインは「クラスナヤ・ビノー」、白ワインは「ビエリ・ビノー」、いまならすぐ出てくるのに、当時はまだそんなことも知らなかった。
もうこうなったら、絵を描くしかないか・・・というところで、上海でのことがよみがえった。C&Aのアジアツアーで行った(その時の話は新刊『バブル』に書いたので、よかったらどうぞ)ので90年代半ば頃の中国、である。
道路は舗装されておらず土埃が舞って、マスクをすると嫌な顔をされた。都会の真ん中でも、そんな感じだった。言葉の通じない食堂で、注文するときはメモ張に絵を描いた。注文を取りに来た店員に絵を見せると、それが存外に好評で、ほかの従業員たちもわらわらと私のテーブルの周りに集まってきて、「お~っ!」と面白そうな声を上げた。そして「この料理ならできるぜ!まかせといて!」といったふうに喜んで料理を出してくれたのである。
あのときの中国人のおおらかさを、シベリア鉄道のジェーブシカたちが持ちあわせていなかったことはざんねんである。
なんとか食事にありついて、指定されている寝台に戻った。
ウラジオストク駅に到着したら、現地のガイドさんが迎えに来ているはずで、その人と共に午前中から市内を観光する予定だったので、しっかり眠っておきたかったが、私は一睡もできなかった。しかも風邪を引いてしまったのか、ひどくゾクゾクした。
列車を降りると極寒で、あとで知ったことだがその時の写真に、幽霊さんが映っていた。
4人部屋のベッドが一つあいていたし、どこかから1名様、ご一緒していたようなのである。極東タイガの奥地で強制労働させられ、祖国へ帰ることなく無念の死をとげた、この地に眠る抑留者の人かもしれなかった。
<つづく>
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