私を「ミルコ」と名付けた父が出入りしていたのは、国名でいうとロシアでなくソ連である。ソビエト社会主義共和国連邦。ところが、ソ連は30年ほど前に消滅している。
ある日、国のえらい人が「我が国は消滅しました」と宣言したのだ。
信じがたいことである。
日本人は日本を失ったことがない。
日本は日本を辞めたことがない。
どんなに荒れても、どんなに世界から顰蹙を買っても、日本は続いてきた。
けれども国の消滅は、日本以外の多くの国が経験していることである。
日々生きるなかで自分がずっと信じてきた場所、それを失うことは大きな変化だ。
私も会社をやめることになって、いろいろ変わった。生き方も、考え方も。
“国の崩壊”は、“一人の退社”の大規模版 だ。あの日巨大な喪失感が国家を覆っただろう。自分のいた場所が「どこにもない場所」になったのだから。
私が会社にいた時代のことを書いた本が、ようやく出た。
昨年夏まで「婦人公論」誌で連載していた「バブル ボスと彼女のものがたり」、このたび書籍化されました。
『バブル』(光文社刊)、全国の書店で9月17日発売です。
会社をやめて実家に戻ったことで私の原点はロシアにあったと気がついて、ヒマにまかせて父の蔵書に手をつけた。
父の書棚にはソ連時代からの政治家の評伝や、ロシア・シベリアの歴史書たちが埃をかぶって身を寄せあい、うずくまっていた。
あれこれ本を読んでみると、ロシアの本には、やたらテンがでてくる。クロテン(黒貂)である。ロシア語でソーボリという。
クロテンといえば「毛」、世界でいちばんの「毛」の持ち主だ。『毛のない生活』を送った私は、「毛」に敏感に反応した。
ロシアとクロテンとは、切っても切れない仲だった。
ロシアの歴史はクロテンが追われた歴史だったのである。
クロテンの毛皮はヨーロッパで売れて、テンは「走るダイヤモンド」「やわらかい金」とよばれた。
ヨーロッパのお金持ちがこぞってクロテンの毛皮を着たがった。
ロシア人はシベリアの先住民に、森のクロテンを獲らせた。
クロテンは逃げまわったあげく、さんざんな目に遭った。
人びとがクロテンを追いまわしたので、シベリアは開発され、ロシアは今の大きな国土を保有することになった。
ようするに、ヨーロッパ側にいたロシア人がテンを求めて東へ東へどんどん進んでいったらベーリング海に出てしまった、というのがひとことでいうとシベリア開拓史なのである。テンは東で捕獲され、そこを戻るようにして西へ(ヨーロッパのお客さまへ) と運ばれた。その道はシルクロードならぬ“ファーロード”とよばれた。
ファーロードはクロテンロード? その興味深いロードのことを、もっと知りたい。より詳しく書かれた本がないのかと思って探したところ、『シベリア500年史・セーブルロードは語る』という本が見つかった。元満州日報・毎日新聞記者の山中文夫さんという方が残された、毛皮輸送ルートを軸にして書かれたシベリア史の書である。
「シベリアは毛皮によって拓かれ、ロシアは毛皮によって富んだ」
ロシア皇帝がシベリアから取り立てた毛皮はかぞえきれないほどであり、ロシアの国
家予算の30パーセントを占めていたといわれる。
毛皮は北国の原住民にとって、きびしい寒さから身を守る生活必需品であるととも
に、日用品を得るための大切な商品であった。だが征服者のロシア人にとっては、国庫
をまかなう有力な財源であり、地位や名誉や、恋人を得るための贈り物であり、高く売
りつけて大儲けできる商売の手段であり、貴婦人にとってはより美しく、より優雅に、
より好ましく身を飾るものである。それは宝石や黄金と同じように、いやそれよりも価
値のあるものだった。だからこそ、命知らずのコザックや毛皮商人がこの広い大地に飢
えと寒さと危険に身をさらしながら、壮絶な冒険とロマンに挑んだのである。
(『シベリア500年史・セーブルロードは語る』はじめに より)
私はガンになって考えた「人間と動物(を含む地球ぜんぶ) との関係」に対して、“ある答え”に近づきたい。毎日、そう思って生きていた。
それを探しに出かけたのが、そもそも旅のはじまりだった。出会いが出会いを呼んで、予想外にこの旅は長くなるのだが・・・
私の名前のルーツのある、ロシアへ――。
父が出張から帰ってきたときにアパートに持ち込んだ冷気が、アザラシの毛でできたへんな小物やお人形、毛皮の帽子、数々のマトリョーシカが放っていた怪しげな異国の匂いが、あの場所にはいまもきっとある。マンモスが出現しそうな凍土のイメージと、アザラシの毛の手触りとを、私はロシアに求めていた。
<つづく>
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