「ミルコ・・・・・・?」
「ロシア語なんだ、へえ~」と感心される。
大人になった今では「可愛い名前だね」と言ってもらえることもある。
けれど、子どもの頃は、違った。
「ソ連なんだ・・・怖いね」というようなことを言った子がいた。それから私は、自分がロシア語由来の名前であることは言ってはいけないことのような気がして、言うのをやめてしまった。
時は冷戦のさなかである。アメリカとソ連が、第二次大戦後の領土の取り合い以降、対立していた。かつてはドイツナチや日本軍をやっつけるため仲良くしていたが、大戦後にポーランド、ルーマニア、ブルガリアなど東欧圏とよばれるほとんどをスターリンが持っていってしまったから、アメリカは怒った。
敗戦日本にとってはアメリカが大事、アメリカはいい国だ、大人たちはみなそう言い、アメリカの素敵なモノやファッション、カルチュアが、どどど、と日本人の暮らしに流れ込んできた。そんな時代にわが家では、家のサイドボードに父がソ連で買ってきたマトリョーシカやアザラシの毛で出来たお土産が並び、父が家にいる休日には一日じゅうロシア語の短波放送が流れていた。『プラウダ』というロシア語の新聞が宅配で届き、ロシア人から電話もかかってきた。ウチの家庭は特殊だったと、いまならわかる。そんな家に暮らす私より、「ソ連は怖い」と言った子のほうが、当時は一般的な子どもであった。
「私もみんなのような、漢字の名前にしてほしい」
と私がせがんだので、母が当て字を考えてくれた。
食卓に母と並んで座り、広告のウラ紙にいくつかの案を書いてみる。
当時――昭和生まれの女子の名前のほとんどに「美(ミ)」と「子(コ)」が付いていたので、その二文字はすぐに決まった。もんだいは「ル」であった。
「ル」には、「留守」の留(ル)と、「瑠璃」の瑠(ル)、くらいしか漢字がなく、ひとまず「美瑠子」となったのだが、願った当人、字面(じづら)を見て、どうも居心地の悪さをおぼえた。
「文字の違いで、ずいぶんと印象が変わるもんだ。人生さえ変わりそうだべ…」と思った。「だべ」は転校先の小学生がみな使っていた。転校生の私にはその方言がカッコいいと感じられていた。私が辻堂、川崎をへて引っ越した千葉県我孫子市は当時、田んぼと森だらけの村だった。我孫子に引っ越したとたん、川崎で患っていた目と耳(光化学スモッグ病)がいっぺんに治った。
「美瑠子」は、書き初めで2回使ったくらいで、すぐにオクラ入りした。
通うべき小学校は子どもの足で歩いて1時間くらいかかる所だったので、私は森の中の分校に通った。
分校の庭には、「かいせんとう」とよばれる大きな乗り物があった。クルクルまわる、というか自分たちでまわす。けっこうなスピードでまわる。そこに飛び乗って、みんな遊ぶ。
分校の子たちはみな「かいせんとう」で遊ぶのが大好きで、休み時間のたびに庭に出て「かいせんとう」のまわりに集結するのだが、私はそれに乗るのが怖くて仕方なかった。なぜあんな危ないものにわざわざ乗らねばならぬのか? なぜあんなものをみな好むのか? わけがわからなかった。
同級生は、怖がりの転校生を責めた。
「かいせんとう」に乗れないことが「負け」のように。
「かいせんとう」におびえる、変わった名前の転校生は弱虫だと。
「かいせんとう」を含む「分校」は、森に包まれていた。
分校へ私がたどり着くためには、森の奥深くへ、足を踏み入れなければならなかった。
森の中には陽が射さず、地面はややぬかるみ、足元には大きなシダが葉を広げていた。
川崎の工業地帯から引っ越してきた私は、本物のシダを見たことがなかった。
「その葉っぱ、ひっくり返してウラを見てごらん」
同級生が面白そうに言うので、シダの葉をおそるおそる裏返してみると、無数の赤いボツボツが現れた。葉の裏全体を覆っているそれに触れると、赤いボツボツが自分に移って、身体じゅう赤いボツボツになるんだよ、とその子に言われて私はすっかり怖くなった。シダと同じ赤い斑点を全身に貼り付けた自分の姿をたびたび想像した。それ以来、シダが掲載されている図艦にさえ、私は触れることができなくなった。そのようにして森は底なし沼のように、私を怯えさせた。
分校の思い出に、ちょっと不思議な体験がある。
森の中を下校中に「ホーホー」という鳥の鳴き声が聞こえたので、声のほうへ進んでいくと、森の奥に大きな極彩色の孔雀が羽根を拡げていたような気がするのだが、あの鳥は本当にいたのだろうか。
森は暗く、深く、湿っていた。
森の記憶も、出口の見えない闇を彷徨うようにして、やがて遠のいた。
<つづく>
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