地球の北半分を覆うように広がる、現在のロシアという国。
この広範な国土を、ロシア人が持つに至ったその背景には、経済動物・クロテンの存在があった。
ロシア平原の北方、シベリアの森林(タイガ)地帯に棲んでいた毛皮獣・クロテン。
そこでのびのび生きていた彼らは、やがて人間たちに目をつけられ、追いかけ回されるようになる。
気性の荒っぽい遊牧民族にちょくちょく脅かされて、なかなか国家を作れないでいたロシア人の「ロシア国の歴史」から始めたいところだが、本稿の主役はあくまでクロテンなので、先回りする。
シベリアが文献に登場するのは1032年のノブゴロド年代記において、クロテンの捕獲量が史実に上がってくるのは、イヴァン雷帝(1530~1583)以降である。目に余るほどの数字がぞくぞくと出てくる。イヴァンがシベリア遠征に遣わせたコサックの首領(アタマンという)エルマークは、遠征の戦利品としてクロテン2,400枚を献上したといわれている。
クロテンの毛皮商売は、たいへん儲かったらしい。
クロテンの毛皮は外套となっただけでなく、帽子や洋服にちょこっと付けるといったファッション小物としても重宝されて、ヨーロッパや現在の中国あたりのお金持ちのあいだで大流行した時期もあったそうな。
ことヨーロッパでは、高値で売れた。
ヨーロッパのお金持ちはこぞってクロテンを着たがり、ロシア商人はクロテン調達に精を出した。シベリア先住民をけしかけて、森のクロテンをとらせたのだ。
ロシア人や、彼らから毛皮を買うヨーロッパ人がやたらクロテンを欲しがる以前から、先住民はクロテンをとっていた。とってはいたが、それは極寒地に棲む彼ら自身の暮らしのためであり、けして贅沢のためではない。
先住民は先代から学んだ彼らなりの森のルールの中で仕事を続けてきただけなのに、そこへよそ者たちが、むりやり横取りに入ってき、「毛皮税をよこせ」と言って彼ら(先住民)に大量の毛皮をおさめることを強いた。
ある森で、採り尽くしたら、次の森。
森から森へと、クロテンを追いかけ、人びとは進んだ。
冬はマイナス30度という厳しい気候のシベリアじゅうを、ロシア商人たちが大移動した。クロテンをめぐって、シベリア先住民と時に対立、時に協力し合いながら。
クロテンはシベリア各地で捕獲され、殺され、毛皮を剥がされた。
商品となったクロテンは、西へ東へと行ったり来たりした。
クロテンの経済効果は抜群だった。
クロテンのために人が動き、道ができ、町ができた。
こうしてシベリア進出したロシアは、15世紀から19世紀末にかけて拡大した。
エルマークがシベリア東進を始めて100年ほどで、オホーツク海沿岸にまで進んだ。
わずか100年でロシアは西欧化しヨーロッパの大国となったが、このシベリア征服も100年ほどでやってのけている。
クロテンはロシア・ナンバーワンの国家専売品であり、15~18世紀のロシアの富は毛皮交易によって築かれた。
ヨーロッパ側にいたロシア人がクロテンを追い回し、東へ東へとどんどん進んでいくうち、シベリアのタイガを越え、極東をも越えて、とうとうベーリング海に出てしまった、東進の末に、「凍らない港」まで手に入れた・・・というのがシベリア開拓史――であるならば、結果ロシアがいまの大きな国土を保有することとなったということは、大国ロシア最大の功労者なはずなのに、いったいどこでどうしているのか、クロテンの存在感はいま薄い。注目を浴びることなど、ほとんどない。一国の経済をまわしていたその存在を、多くの人が忘れてしまっているかのようである。
女帝エカテリーナをはじめ歴代の王女・貴族たちに愛された毛皮がたどった道。
毛皮は人びとをあたため、幸せにしたと思う。
しかしそこには500年にわたる民族の闘い、追われた動物たちと無理な狩猟を課された先住民たちの苦しみ、悲しみ、森林の崩壊がつきまとった。
時は流れて、時代は変わった。
毛皮の需要は減ったが、棲む森も減って、テンはどうしているだろう?
交易によって栄えた街や、猟師や、毛皮加工にかかわった人たちはいまどこへ・・・?
「毛皮(ファー)の道(ロード)」はいまどうなっているのだろうか。
大量のクロテンが殺され、毛皮を剥がされたという話に胸を痛めているだけでは、何も進まない。大量死したクロテンたちの無念をはらすべく、私はふたたび旅に出る。
なにより、私はクロテンの件を、他人事とはどうしても思えなかったのだ。
<つづく>
*太字部分は『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』(小学館)より抜粋(参考文献は、書籍の巻末に掲載しています)
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