第24回ハワイ島の思い出

モスクワ・サンクトペテルブルクから戻ってまもなく、友人7人で忘年会をやった。
私がそんな大人数の集まりに行くことはめったにないが、このメンバーとは何年も続いている。
メンバー構成はテレビ局、出版社、広告代理店、通信社、などに勤める仕事を通じて知り合った同世代の仲間で、全員独身、7人なのでレインボーズと呼んでいた。
その会で私は、初ロシア旅行の報告をした。そして今回訪れたモスクワやサンクトペテルブルクは、私の研究対象である<クロテン>とあまり関係がなかったので、次はロシア極東方面へ行きたいのだと話した。
「ハバロフスクとかウラジオストクとか。これから行くと1月か2月だから、すごく寒いと思うんだけどね・・・本を書くから、できれば早く行きたいんだ」
その瞬間、そこにいた全員が凍りついた。「もしも誘われたらいやだな・・・」と思ったかもしれない。が、一人が話を継いでくれる。
「真冬のハバロフスクって、マイナス30度くらいになるんじゃないの?」
「うん。たぶんそれくらいにはなるね」
「・・・・・」
「ええっと~、誰か一緒に行ってくれないかなぁ?」

レインボーズでは何度か旅行をしたことがあった。
その中でも特筆すべきは、全員が出席したハワイ島一周ツアーである。
メンバーの一人が、かつての恋人と行った思い出の島だ、たいへん美しい所だ、という話から、そうなった。
みな勤め人で、当時は私もまだ出版社にいたので、旅行はお正月休みに決行した。
航空券や宿泊地の手配は、言い出しっぺさんが中心になってやった。
現在の私は、旅へ行くとき相当力を入れて下調べを・・・その土地の歴史や風土や政治や・・・についてやるのだが、当時は編集者として多忙を極めていたので、プライベートの旅行は人任せになっていた。


で、行ってみると、ハワイ島にはなんにもなかった。
あるのは青い空と広い海。
交通手段も、なかった。レンタカーのみ、である。
7人のうち、クルマを運転できるのは私一人だった。
7分の5は男性だったが、免許さえ持っていなかった。メディア業界に入って以降、自動車教習所へ行く時間などなかったのだろう。私は大学2年のときに運転免許を取得しており、田舎に住んでいたこともあって、運転は得意だった。しかしながら、まさか異国の未知の土地で、しかも慣れない左ハンドル・右車線で、大人6人を乗せて島を一周することになろうとは。
じっさい、レンタカーを借りて最初に走り出した瞬間には左車線を走行してしまい、仲間たちを恐怖のどん底に陥れた。

けっきょく私の運転で、みんなはハワイ島を一周した。
途中、大雨に振られたり、真っ暗闇の道を延々と走ったり、冷や汗をかくことは何度かあったが、その体験は私の自信になった。
ハワイ島について訊かれたら、まず運転ばかりしていたことが最初にきてしまうが、ここ数年に起こった大きな山火事をワールドニュースで知ったときには、胸を痛めた。と同時に、胸を打たれた。
住むところを失った島民が、記者の問いに対して、こう言っていたのである。
「住んでいる私たちのほうが、悪いのです」
自然の神々への敬意が感じられる、なんと謙虚なコメントだろう。
当連載の、先の章に書いたロシアの<ウデヘ>など北方先住民もそうなのだが、ハワイ島の人びとも、自然から「必要以上に取る」ことを自らに禁じている。「カブ」(ハワイ語で「タブー」の意)というのだそうだ。
日本で言う<八百万の神>にあたる、すべてのものに霊魂(「マナ」という)があるとするハワイ古来の信仰のもと、たとえば特産品であった羽毛の品々も、かつては鳥を殺さずに作られていた。しかし近代化にともない「カブ」の精神が薄れていき、鳥も絶滅の危機にさらされた。

このハワイ島一周ツアーのハイライトが、「星を見る」だった。
マウナケア山をバスで、天体観測所のある地点まで登った。
現場の気温は零下であり、ダウンジャケットを借りてツアーに参加したが、レインボーズの7人のうち6人(私を含む)が、寒さに怯えてバスからほとんど降りず、天体観測をじゅうぶんに楽しむことなく下山した。
このときただ一人、極寒に屈することなく勇敢に外へ出て、満天の星を味わい尽くした人物がいる――テレビ局勤務のT君だ。彼が、忘年会の帰り際に言い出した。
「・・・俺、ハバロフスク行きに、付き合ってもいいよ」

<つづく>

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